my... 42


「はい、ありがとうございます」

 宜しくねという優しい声が携帯電話から聞こえ、アルマは複雑な気分になりながら通話を終えた。携帯を閉じ、ベッドに座っているユウを見る。

「小父さんが出たよ。泊まっていいって」
「母さんが出たくせに」

 声が漏れていたと言われ、折角気を使ったのに意味がなかったかと苦笑いする。確かに、ユウの言う通り電話に出たのはユウの母親だった。

「……さ、お互い落ち着いて話をしよう。とりあえず、俺のうちからなくなった包丁と、兄ちゃんの怪我は無関係ってことで話を進めよう」
「………」
「ユウ、」
「……わかった」

 口ではそうは言っているが、絶対にユウは納得してない。ティキの傷は事故ではなく、ユウの母親がアルマの母親宅から盗んだ包丁で負わせた傷だと思い込んでいる。

「どうしてユウは自分の母親が兄ちゃんを刺したって思いたいの?普通は否定するだろ」
「否定する理由がない。あの人はにぃのことが嫌いだから」
「さっきユウ、にぃちゃんは小母さんに酷いことされても忘れちゃうって言ってたけど、それって虐待、ってことでいい?」

 いくら幼馴染とはいえ踏み込んでいけない領域だとは思ったが、あえてアルマはユウに尋ねた。恐らく、ユウは母親のことについて一人で抱え込みすぎている。喋らせることで整理させなければ、ユウの精神が参ってしまう。そう判断したのだ。

「……ああ」

 問われたユウは少しだけ答えることに抵抗を見せたが、最終的にアルマの尋ねた通り虐待だということを認めた。

「母さん、俺が生まれる前ににぃのことを虐待してたらしい。父さんから聞いた」
「父さん?その父さんは、兄ちゃんとユウの父さんってことであってる?」
「ああ。にぃの家に泊まりに行った時に電話がきて、それで少しだけ話をした。にぃが自分の誕生日を覚えられないのもその虐待の所為だ」
「自分の誕生日を覚えられなくなるいくらいの虐待って、……あ、」

 大人になってまで影響するほどの虐待とは一体どのようなものなのかと考え、アルマの脳裏に幼い頃のティキの姿が浮かび上がる。アルマの様子を見てアルマが今考えていることを理解したらしいユウが頷き、左の脇腹に手を当てた。

「にぃの誕生日、父さんが仕事で遅くなったことがあったらしい。父さんが家に帰った時、母さんが包丁を持って立ってて、暖炉の前の何かを見てた。最初は父さんも何が起こってるのか理解できなかったって言ってた。けど、理解する前に救急車を呼んでたって。連絡をしてから、母さんが持ってた包丁を取り上げて、背中が真っ黒になって倒れてるにぃが息をしてるか確認した」
「その火傷、兄ちゃんとユウとプールに行った時に見た。…ちょっと怖がっちゃったの、覚えてるよ」
「にぃ、あの時は本当に危ない状態だったって父さんは言ってた。後少しでも処置が遅れてたら、死んでたかもしれないって」
「……じゃあ、その火傷が兄ちゃんが誕生日を忘れた原因?」
「それだけじゃない。にぃを担当した医者は、火傷だけじゃなくて体の前面に深い切り傷があるって父さんに話した。火傷で隠れてしまったけど背中にもって。古い切り傷もあるって。それで、父さんは救急車んだ時に母さんが包丁を持ってたのを思い出した」
「最初は気づいてなかったってこと?」

 虐待だと気付いたから包丁を取り上げたのかと思ったと言うと、ユウは眉間に皺を寄せて首を横に振った。父親は病院に行ったばかりの時は虐待に気づいていなかったという。

「見た時は、にぃが遊んでいて事故で暖炉に体を突っ込んでしまって、その悲鳴で料理中の母さんが駆けつけてきたって考えてたらしい。だから、にぃが大火傷してるのを見て、自分と同じように信じられなくて固まってる母さんが包丁を落として怪我したら大変だからって、包丁を取り上げたんだ」
「…そっか、母さんが小父さん達のことすごく仲が良い夫婦って言ってたもんね、簡単に虐待なんて信じられないか……」

 それに、ティキだって母親を恐れることなく、ごく自然な態度で接していた。虐待なんて言われても信じられない。

「俺が父さんのことを知ったのは離婚した後だから、仲が良い夫婦なんて言われても信じられないけどな」
「それは、ね……それで、続きは?」

 ユウの言葉にそれは仕方がないと苦笑しながらもティキのことについて続きを促す。

「父さんは病院へ行ったけど母さんは行かずに家に残ってたから、にぃの容体が安定するまでは父さんは母さんに何も聞けなかった。母さんに着替えを病院に持ってきてくれないかって電話したけど持ってきたのは祖母さんだったって。それで、にぃの容体が何とか安定した後、一旦家に帰って母さんににぃのことを聞いてみた。『あの子の火傷はどうしたんだ?君は何か知っているのか?』って」
「…何て答えたの?」

 切り傷については尋ねなかったのかと思いながらも、きっと二人の父親も動揺していたのだろうと考えなおす。

「母さん、馬鹿みたいな答えしたんだぜ?『私が付けた切り傷を消しているの。見たらあなた怒っちゃうでしょ?』って」

 ユウの顔が歪み、母親に対する嫌悪が見える。もっとも、それも当然だろう。母親のその言葉はティキの体についた火傷だけでなく切り傷までもが、母親が原因であることを証明するようなものだ。ユウにとってティキは最も大切な人なのだから、その体を傷つける行為を行ったことを認めるその言葉は忌むべき対象でしかない。

「その言葉を聞いて父さんは『じゃあ、どうして切り傷なんて付けたんだ?』って聞いたらしい」
「……」
「母さんは、『悪魔を殺したいからよ』って答えた」
「……悪魔」

 その単語で少し前、ユウがティキの家に泊まる為にアルマが迎えに行った時、未だ話し合いが終わらず苦労していたユウが、母親がティキのことを「私からユウを引き離す悪魔だ」と言っていたと話していたのを思い出す。そんなにも昔から、母親はティキのことを悪魔と言っていたのだ。

「勿論、父さんはにぃは悪魔じゃないって怒った。そしたら母さんは『どうしてわかってくれないの?私達の幸せの為なのに』って泣きだした」
「うわぁ……」

 とても正気とは思えない発言だ。

「母さんが言うには、父さんが母さんがいてほしい時にいないのは悪魔の所為だって。学生の時は日中も一緒だったのに今は全然一緒にいてくれない。だから、悪魔がいなくなれば父さんはまたいてほしい時に傍にいてくれるようになるって」

 ティキとユウの父親の仕事は普通に日中働く仕事だったとアルマは記憶している。昼に家にいないのは当然だ。

「よく、そこから再構築したね、」
「にぃが嫌だって言ったから」
「え?」
「にぃ、母さんにされたこと覚えてなかったんだ。今までに小さな切り傷を付けられてた時みたいに、その時も覚えてなかった。それどころか、その怪我を負った日が自分の誕生日だったってことも覚えてなかった。自分の誕生日自体忘れたんだ。きっと、母さんがにぃを傷つけている時に誕生日について何か言ってたんだと思う」
「…だから、離婚しなかったんだ」

 両親が離婚するかもしれない原因が、理由もわからないのに自分にあると知ったティキが反対するのは仕方のないことかもしれない。

「その後、母さんが暮らしやすいようにって日本に戻って暮らし始めて、俺が生まれた。俺が生まれて暫くしたら父さんの仕事が忙しくなって、それで、母さんが浮気して、離婚した」
「……」

 ユウの話を聞いて、アルマはユウには悪いが自分の夫婦がただの平和な夫婦で良かったと思った。ユウの口から出てくる話はアルマにはまるで非現実的で、本当に起こった出来事だとは思えない。まるで悪夢だ。

「母さんは、にぃを刺すことなんて何とも思ってない。あるとしたら、悪魔を殺してやるんだって思いだけだ」
「……ユウ、」

 言葉が見つからない。ユウの言ったことが全て本当なら、今ティキが入院している怪我の原因は母親かもしれない。アルマですらそう思ってしまう。

「だけどさ、ユウ」
「何だよ」
「もし、本当に小母さんが原因の傷だとしたら、ユウはどうするの?」
「どうするって、」
「もしかしたら、兄ちゃんのところにまた刑事さんが来るかもしれない。その人に、母親が刺しましたって言うの?」
「……」

 初めてユウの顔に戸惑いの色が浮かぶ。そこまで考えていなかったという顔だ。
 今、母親がティキを刺したという可能性もあることを知っているのはユウとアルマだけだ。被害者のティキは何も覚えておらず、ティエドールもアレンもそのことは知らない。

「家族がバラバラになる可能性は、十分にあるよ」
「にぃは絶対に母さんに刺されたんだ!それなのに……それなのに、母さんは何の罪の意識もなく生活してるんだ!お前は何も言うなっていうのかよ!?」
「それも一つの方法だと思う」

 アルマの静かな返事にユウの目が驚きで見開かれる。

「……信じらんねぇ、にぃが辛い思いをしたのに、」

 幼馴染の一大事を良くそんな言葉で片付けられたものだと吐き捨てるように言われ、少しだけアルマの眉間に皺が寄る。だが、アルマはあくまで冷静にユウと接した。

「よく考えて、ユウ。もしこのことが兄ちゃんに伝わったら、もしかしたら兄ちゃんは昔のことまで思い出しちゃうかもしれない。兄ちゃんはそれに耐えられるのかな、」
「どういう意味だ」
「兄ちゃんの心が壊れちゃうかもしれないって言ってるんだよ」
「…っ、そんな、」
「それに、ユウにとって最悪の事態になる可能性だってあると思う」
「俺にとって……?」

 ユウの瞳が早く言えと不安げに揺れる。

「兄ちゃんがユウのことを忘れる可能性もあるかもしれない」
「にぃが俺を忘れるわけない!」
「あくまで一つの可能性だよ!怒らないで、」

 カッとしたユウに胸倉を掴まれ、アルマは咳き込みつつ予測の一つにすぎないことを強調する。やはり、アルマが思った通り、ユウにとってティキに忘れられるということは恐ろしいことのようだ。

「もし小母さんが刺したってことを兄ちゃんが知ったら、兄ちゃんの体は防衛本能で刺されたってことの他に原因自体を忘れちゃうかもしれない。兄ちゃんが刺されることになった原因は?」
「…俺と一緒に暮らすこと」
「そうだけど、多分一番の理由は兄ちゃんとユウが仲良くしてることだよ。でも、兄ちゃんにとってユウはすごく大切な存在だから、無視なんて出来るわけない。ユウに求められれば応える以外の選択肢を思い浮かべない」
「だから、俺の存在を記憶から消すっていうのかよ」

 最初からユウの存在をなかったことにすれば、求められても応えることはない。仮に、ユウが会いたいとメールをしても誕生日について言われた時のように思考が停止し、メールが来たこと自体を忘れてしまうのだろう。

「一つの可能性だけどね。だけど、その可能性もあるってことを忘れない方が良いと思う」

 唇を噛みしめて俯くユウを見ながらアルマは自分の言ったことがどういう意味なのかを考え直し、気分が悪くなった。アルマはユウに犯罪を見逃せと言っているのだ。あくまで可能性があるだけと言っておきながらもそのことを強調し、ユウに母親がティキを刺したかもしれないことを警察に言わせないようにしている。

「……にぃが、俺を忘れるはずない」

 ユウの声はとても震えていた。