my... 39


火曜日の夜、ユウが夕飯の支度をしていたところで電話がかかってきた。面倒だったがアレンは部活動で遅くなるらしくまだ帰ってきていない。
仕方なく包丁を止めて、鍋の火を止め、電話に出る。

「はい、ティエドールです」
『ああ、ユー君?』

電話をかけてきたのは父親だった。少し焦ったような声色で、ユウは眉間に皺を寄せて父親に尋ねた。

「どうかしましたか?」
『お母さん帰ってきてないかな?』
「…帰ってきてないです」
『そうか、ありがとう。悪いけど、もしお母さんが帰ってきたら連絡してもらっていいかな?』
「わかりました」
『すまないね、まだ話し合いも終わっていなくて……じゃあ、また後で連絡するよ』

子供を溺愛している父親にしては珍しく短い通話だ。もしかしたら、声に出ている以上に焦っているのかもしれない。

「母さん、どこか行ったのか?」

母親は、日曜日に実家に帰ったきりまだ家に帰ってきていない。それどころか、ユウとアレンの二人きりを心配する電話やメールもない。まあ、数日母親がいない位で生活の危機に瀕してしまうようなものでもないが。
念の為、玄関まで行って靴を確認してみたが、やはり母親の靴はなかった。
父親の電話は母親の実家からのものだったので、少し前まで実家で話し合いをしていたのだろう。きっと、祖父母も母親の見方をしてくれず、逃げ出したのだ。逃げたところでユウがティキと暮らす日は着々と近づいているし、準備だってほぼ終了していると言うのに。

キッチンへ戻って中断していた調理を再開し、粗方できたところでアレンの帰りを待つ。部活動ならばあと一時間もすれば帰ってくるだろう。一時間位ならば待ってやれるし、その間にユウも大学から送られてきた書類に目を通せる。
部屋から昨日大学から送られてきた分厚い封筒を持ってきてリビングで開ける。中には前期の時間割を記入する紙と、授業内容の書かれた厚い冊子が入っていた。
「…めんどくせぇ」

大学の時間割は必修科目以外は自分で決めるものだとわかっていたが、この分厚い冊子を見ると大学への期待と言うよりも面倒臭さが先立ってしまう。
取り敢えず冊子を手に取り、表紙を捲ってみる。字の小ささに溜息が出たが、これからこの冊子に書かれた授業のうちのいくつかを実際に学ぶことになるのだと気を引き締めて文字を読む。

「外国語……」

読み進めていくうちに英語以外に一つ外国語を学ばなければいけないことを知り思わず顔を顰めてしまった。英語を学ぶのが苦手だからこそユウは日本文学を専攻したというのに、英語以外にも言語を学ばなければいけないとは。ちなみに、英語の授業も少ないがちゃんと必修科目に入っている。
言語の選択は後にして、取り敢えず他の授業も見てみようとゆっくり冊子を読み進めていたユウだったが、冊子の半分も行かないうちにアレンが帰ってきてしまった。時計を見れば料理が終わってから一時間半経過しており、一時間半読んでも読み終わらない冊子の厚さに改めて溜息が出る。

「鞄置いてこい。夕飯温めとく」
「あ、はい!」

ばたばたと慌ただしくアレンが自室へ向かい、そしてすぐに戻ってきた。殆ど時間が経っていない―実際、ユウは鍋の火を付けたばかりだった―にもかかわらずアレンは部屋着に着替えており、食事前のアレンの素早さには呆れてしまう。

「もしかして、兄さんご飯食べないでいてくれたんですか?」
「やることがあったからな」
「ありがとうございます」

茶碗に焚きあがったばかりのご飯を盛り、アレンにテーブルまで運ばせる。
ユウが冷蔵庫に入れておいたサラダやおかずをテーブルまで運んだところで、再び電話が鳴った。

「僕が取ります」

ユウと入れ違いでキッチンに戻っていたアレンが声を出したので、ユウは電話は気にせずキッチンへ戻った。温めておいた豚汁が丁度いい具合になっているはずだ。

「兄さん、もう一人分食事ありますか?」

豚汁を盛り、いざ運ぼうとしたところで電話を持ったアレンがキッチンへ顔を出した。思いもよらないアレンの質問に瞬きし、盛り付けたばかりの豚汁を見る。

「……お前が食う量減らせばな。どうした?」
「アルマが今からこっちに来たいって言ってて、あ、もう向かってるらしいんですけど」
「はぁ?…まあいい、どれくらいで着くんだ?」
「十分位らしいです」
「わかったからさっさと来いって言っておけ」

どうせユウの声が聞こえているのだろうが―ユウがどれくらいで着くのかと尋ねた時、アレンはその質問をアルマにしなかった―改めてアレンに言わせ、折角盛った豚汁を鍋に戻す。テーブルに置いたご飯も炊飯器に戻した方がいいだろう。十分も放置したら冷めてしまう。

「ご飯の時間、遅くなっちゃいますね」
「十分くらいならいいだろ。それとも、お前は先に食ってるか?」
「待てますよ」

受話器を置いたアレンがユウの言葉に対しむっとしてグラスに水を注いで一気に飲み干す。恐らくは空腹を水で紛らわせるつもりなのだろう。待てるとは言っているが、ユウは受話器を戻してキッチンに入ってきたアレンが、ユウが炊飯器に白米を戻しているのを見てとても残念そうな顔をしていたのをしっかりと見た。

「でも、いきなりどうしたんですかね、アルマ」
「知るか。アイツいつもわけがわからな時に来るだろ」
「それもそうですけど」

アルマがこちらの予定を聞かずにふらっと現れるのはよくあることだ。まあ、大体は食事の時間を外してくるので、今日のようなことは珍しいが。
十分と言っていたので、リビングへ行って途中になっていた授業説明の冊子と再び向き合う。ユウの後を追ってリビングへやってきたアレンはユウが分厚い本のようなものを持っているのを見て驚いたようだったが、それが大学からきたものだとわかると一人納得したように頷いた。

作業をしていれば十分はあっという間に過ぎ、ユウが十五頁ほど読み進めたところで玄関のチャイムが鳴った。ユウが冊子と記入用紙を封筒に入れている間にアレンが玄関へ向かい、アルマを迎える。

「悪いね、こんな時間に来ちゃって」
「全くだ。いきなりどうした?」
「うん?いや、今日小父さんも小母さんもいないって言うから、二人だけじゃさびしいだろうなって思って」
「そんなこと言って、兄さんのご飯が食べたいだけでしょ」
「あはは」

悪いねと言いつつも表情はちっとも悪びれておらず、取り敢えず言っただけの言葉であることはすぐにわかる。

「……?」

アレンとアルマの会話を背で聞きながらキッチンでご飯を盛っていたユウだったが、ふとアルマの言葉で気になる言葉があることに気付いて振り返る。

「お前、どうして今日二人だけってわかったんだ?」
「母さんから聞いたんだよ。今、家に小母さんが遊びに来てるらしくて」
「…母さんが?」

夕食を作る前に行方不明になっていた母親の所在を知り、ほっとすると同時に何故家に帰ってこないのかと首を傾げる。確かに、母親とアルマの母親は仲が良いが、普段はお互いの家の中間あたりの喫茶店で会うことが多く、家へ行ったりすることはあまりないと聞いていた。

「母さんがちらっと言ってたんだけど、夫婦喧嘩中なんだって?」
「俺のことでな」
「はー…成程ね。まあ、それで、喧嘩の愚痴を聞いてもらいたいんだってさ。今日はうちに泊まりそうだって」
「うわ、夜通しで愚痴ですか?」
「さあ?愚痴だけじゃないとは思うけどね、仲良しだし」

愚痴。その言葉にユウは瞬時に、母親が味方になってくれるような、自分の環境に同情してくれるような人物を探しているのだと理解した。夫も、両親も駄目。それなら、親友であるアルマの母親はどうかと思ったのだろう。突然押しかけられたであろうアルマの母親にしてみれば厄介以外の何物でもないはずだが。

「あ、そうだ。小父さんに小母さんが家にいるってこと言わないでほしいって。伝えるにしても、『明日には家に帰ります』って言葉だけにして、だってさ」
「あくまで今日一日は愚痴に使う気か」
「まあ、どの道小父さん実家でしょ?こっちくるともう深夜になるしさ、明日でいいんじゃない?」
「…そうだな」