my... 37


「ティキ、ユウのこと風呂に入れてやってくれ。下着はもう用意してある」
「わかった」

父親がいて、リビングでノートを広げて宿題をしているティキに声をかける。ユウはそんなティキの隣でティキに貰ったばかりの縫いぐるみを弄っていた。

(昔の…)

これは、夢じゃなくて幼い頃の記憶だ。それも、まだ思いだせていない頃の記憶。
きっと、眠る前に父親から昔の話を聞いたことで記憶が呼び起されたのだ。
幼いユウの目から見る景色はとても低く、そして思い通りに動かない。幼いユウはティキの邪魔をしないようにと一人遊びに夢中でティキを見ようとしない。隣にいるティキの姿を見たいのにと苛立っていると、ぽんと頭に何かを乗せられた。

「ユウ、お風呂だよ」
「にゃーにゃは?」
「縫いぐるみはここに置いてって」

にゃーにゃはユウが手に持っている猫の縫いぐるみの名前だ。この猫の縫いぐるみをユウはとても気に入っていたのに、いつの間にか―恐らくは離婚した時に―いなくなっていた。
貰ったばかりの縫いぐるみなのにここに置いて行けと言われ、幼いユウがむすっとして縫いぐるみを抱く手に力を込める。

「ユウ、それは濡れるのが嫌いなんだ。嫌なことはしたくないだろ?」
「うん…」
「じゃあ、ここでお留守番してもらって、二人でお風呂だ」
「うん!」

入浴が嫌いなら仕方がないと猫の縫いぐるみをソファに寝かせてお腹をポンポンと叩き―これは、ティキがよくユウが寝るときにしてくれた動作だ―ティキと手を繋いで風呂場へ向かう。

「ほら、バンザイして」
「ばんじゃー」

脱衣所でティキに手を挙げるように言われ、手を挙げるとティキが服を脱がせてくれた。とても慣れた手つきで、今までに何度もユウを風呂に入れてくれていただろうことが分かる。
手早くユウの服を脱がせると、ティキは自分の服も脱ぎ、バスタオルを浴場のドア近くのかごに入れてユウを見た。

(傷が…)

幼いユウはティキとニコニコとして会話しているが、そんな幼いユウの目を通してティキを見ているユウは気が気ではなかった。
ティキの体には無数の痕があったのだ。火傷の痕や切り傷の痕。そしてその傷跡は全て、半袖半ズボンを着ても隠れる場所に集中している。見えないところを狙って付けられた傷であることは明らかだった。
どの傷跡も昔のもので少しは薄れているようだが、それでも、目を凝らす必要もなく痕を発見できる。

「ちょっと温まってから体洗おう」
「うん」

ティキに抱っこしてもらいながらお湯に浸かり、手でぱちゃぱちゃと水面を叩く。跳ねたお湯が顔にかかると、何が面白いのか幼いユウは楽しそうに笑った。
こんなに傷ついた体をした兄の前で、よくもまあ無邪気に笑えるものだと過去の自分に腹が立つ。だが父親が電話で話していたことを思い出し、これで良かったのだと心を静めた。
ティキの傷だらけの体には、父親も目を背けてしまっていたという。そして、そのこともティキを苦しめていたと父親は言っていた。ティキには虐待されていた記憶がなく、自分の体についている傷にも覚えがない。それなのに周りから同情や憐れみの目で見られるのは、堪らなく苦痛だったはずだ、と。
そんな中、ユウは幼い故にティキの体の異常性が分からず、傷だらけの体を見てもニコニコとしていた。それがティキの心の支えの一つだったようだと父親は言っていた。

「にぃ」
「ん、何?」
「今日ねー、にぃと一緒に寝たい」
「一緒に?」
「にゃーにゃも」
「父さんと母さんがいいって言ったらな」









「ユウ、ユウ」
「…ぁ、」

気づけば、すぐ目の前にティキの顔があった。心配そうな表情をしてユウの名前を呼んでいる。眠る時に電気を消したはずだったが、ティキが点けたのか部屋は明るい。

「魘されてたぞ、大丈夫か?」

上体を起こすと、ティキがベッドのふちに座ってユウの髪を梳いてくれた。そんなティキの手を掴み、ティキの体をじっと見る。

「ティキにぃ……」
「どうし、っ!」

ギシッとベッドのスプリングが軋んだ音を立てる。
ユウが見下ろすティキの表情は心配げなものから呆気にとられたものに変化しており、状況を飲みこめていないのは明らかだった。    

「おい、ユウ、」

まず状況を説明してほしいというティキの言葉を無視してシャツをめくると、 ユウは耐えられず涙をこぼしてしまった。
夢で見たものよりもはるかに薄いが、確かに、ティキの体には無数の傷跡が残っていた。祖父母の家に泊まりに行った時に気付けなかったのは何かの影かと思えばそれで納得してしまう様な薄さだからだったのだ。
左脇腹にあるひときわ大きな痕―これは火傷の痕だ―に触れると、ティキがくすぐったそうに身を捩ってユウの手を掴んだ。

「寝ぼけてるな?」

苦笑しながらティキが起き上がり、シャツを着直す。怪我の痕が全く見えなくなると、ユウはティキの体から目を逸らして俯いた。

「寝ぼけてたわけじゃないけど、」

断じて寝ぼけていたのではない。ただ、夢で見たあの傷跡が本当に夢なのか、それとも現実のものなのか知りたかっただけだ。本当は今度一緒に風呂に入るまで待つつもりだったが、あんな夢を見ては我慢できない。

「寝ぼけてないって言うなら、いきなり俺のこと押し倒して服めくって、どうしたんだ?」
「…夢で、」
「夢?」
「ティキにぃと風呂入ってる夢見て、」
「……あー、成程」

当たり障りのない言葉を探しつつ口を開くと、ティキは頭を掻いた後少し言いにくそうに声を出した。

「傷跡、思いだしたのか」

声を出せず頷くと、ティキは片手でシャツの首元を広げて己の体を見、肩を竦めた。

「傷跡あったことわかってたらわかるのか。前体見た時は気づかなかっただろ?それなりに治療で見えなくなったんだけどな」
「俺、小さい頃は全然気づかなくて、」
「それが、俺は嬉しかったよ」

ティキと会った後何度か見た夢で、ユウは容赦なくティキの体の体を叩いたり、上に乗っかったりと状況を理解していないだけにティキの体に配慮のないことを沢山してきた。
申し訳なくて謝ろうとすると、ティキは言葉を遮るようにユウに話しかけてきた。

「学校で、俺がハーフってこともあったけどさ、夏場は特に、傷の所為で避けられたりしたんだよな。ほら、授業でプールあるだろ?傷が痛むわけでもねぇからって一回プールに入ったら、クラスの奴ら皆に避けられて。教師もさ、やっぱぎこちなくなって。親父が授業参観の時にそのこと教師から聞いたみたいで、小1の夏休みから親父が傷を消す為に病院によく連れていってくれた。まあ、初めて俺の裸見た奴が傷に気づかなくなるまでは、かなり長い時間かかったけどな」
当然だ。あんなに広い範囲に付けられた傷を、そう簡単に消せるわけがない。治療をした今ですら、うっすらと痕が残っているのだから。

「親も俺の傷見て嫌な顔してた。けど、ユウは違った。朝俺のこと起こす時に遠慮なく俺の体に乗ってくるし、俺の帰りが遅ければ寂しかったって癇癪起こして俺のこと叩いたり。極端な奴じゃ、傷を見てから俺の体に触らなくなったって奴もいたからさ、ユウの態度は本当に嬉しかった」
「…痛くなかったのか?」
「俺が覚えてない頃の傷だからな、痛みなんて無い」

覚えていない頃の傷ではなく、忘れてしまった傷だ。その言葉には大きな違いがあったが、ユウはそれを指摘せずにティキのシャツを掴んだ。

「どうした?」
「もう一回見たい。傷」
「見ても面白くねぇぞ」
「その傷で、思いだすこともあると思うから」

やはり、ティキは戸惑ったようだったが、ユウが言葉を付けたすと仕方がないと言いつつもシャツを脱いでくれた。恐らく、ユウが昔のことを思い出してくれるのではという期待があるのだろう。
服を脱いだティキの体をじっと見て、左肩にある火傷の痕に手を当てる。その火傷の痕は背中にも繋がっており、そのまま背中に手を動かしていくと、背中全体を覆う広い痕があった。

「っ!」
「火傷は、何か所もってわけじゃなくて一か所だけなんだ。ただ、その一か所がでかくて、背中から左肩、左脇、右胸まで広がってる」
「どうやったらこんな火傷……」
「ん?」
「……何でも、ない」

事故ではなく虐待によってつけられた傷。事故ではなく、故意に付けられた傷。

「別にさ、ユウがそんな顔しなくていいんだぜ?これはさ、ずっと小さい頃についた傷で、俺は何も覚えてない。ユウが生まれるよりもっと前のことだ。だからさ、そんな泣きそうな顔しなくていい」
「………」

泣きそうな、と言われた途端涙が出てきて、ティキの体に触れていた手で涙を拭おうとすると、ティキに抱きしめられた。

「こんだけ近けりゃ痕も見えないだろ。…ガキの頃から、ユウの泣き顔は苦手なんだ。ユウは、俺のこと何か心配しなくていい。ただ、笑っててくれ」