my... 36


ユウが風呂に入り、ティキがリビングで一人酒を飲んでいる時のことだ。
携帯が鳴り、ティキは眉を顰めて携帯を取った。この時間にフロワから電話が来ることはまずなく、恐らくは先程電話してきた同僚達だろうと思ったのだ。彼らは一度断っても酔っ払うと断られたことを忘れてしまう。
だが、携帯の画面を見て電話をかけてきた相手を確認し、予想外の相手に目を見開く。

「親父、」

偶に思い出したように連絡が来る時があるが、こんな時に電話をしてくるとは。
まだユウは入浴中だし、あがってきたら電話を切ればいいかと携帯を耳に当てると、久々に聞く父親の声が耳に入ってきた。

『ああ、ティキか?』
「どうしたんだよ、こんな時間に」
『こんな時間?まだ明るいだろ?』
「時差」
『あー……そうだった。悪いな、寝ようとしてたか?』
「まだだけど…」

もしかしてボケたのかと眉を顰めたが、父親の年齢を思い出しまだボケたわけではないだろうと思い直す。単純に忘れていただけだろう。

『暫く連絡してなかっただろ?そっちに行くこともなかったし。だからどうしてるかと思ってな』
「元気にやってる。…祖母さん、具合は?」
『最近は大分良いみたいだ。またお前に遊びに来てほしいとさ』
「はは、機会があったら」

以前ティキが父方の祖母に会ったのはティキが大学を卒業した時のことなので、もう四年ほど会っていない。また行ってみようと思う時はあるのだが、仕事で忙しかったりと時間が作れずそんなに時間が経ってしまった。
そして、これからはもっと行けなくなるだろう。何せ、ユウと一緒に暮らすのだ。ユウはまだ父親と会うことに抵抗がある。会いに行くのにユウを一人日本に残していくわけにはいかないが、父親とまだ会いたくないと言っている中、無理矢理連れていくのは宜しくない。

『どうだ、そろそろいい人は見つかったか?』
「は?」
『社会人になって四年、そろそろ恋人できたんじゃないか?』
「いねぇよ」
『じゃあ、相変わらずあの無駄に広いマンションに一人なのか』
「ああ。……けど、」
『けど?』

言おうかどうか迷ったが、父親は母親とは違うと口を開いた。

「四月から、ユウと暮らすことになった?」
『ユウ?ユウって―――あのユウか?』
「親父がどのユウを想像してんのかは知らねぇけど、俺の弟でアンタの息子のユウだよ」

電話の向こうで父親が息を飲む。恐らくは、離婚してから今まで直接的な関わりのなかったユウとどうして一緒に暮らせることになったのかと混乱しているのだろう。

『何で一緒に暮らせることになった?いや、でもまあ、とりあえず良かったな!嬉しいだろう?もう何年だ?十五年近く、写真で見るだけだっただろ』
「ああ、嬉しいよ。ユウさ、俺のことティキにぃって呼んでくれるんだ。昔、にぃって呼んでたからって」
『お前のこと覚えてたのか。――その、』
「最初は忘れてた。けど、思いだしてくれた」

父親が何故か言いにくそうにしているので、父親が聞きたそうなことを考えて答えてやると、父親はほっとしたような声でティキに声をかけてきた。

『しかし、どうして会えることになったんだ?住所知ってるとはいえ…』
「ユウが進路で悩んでた時に、母さんから助けてやってくれって連絡があったんだよ。それからまあ、ゴタゴタあったりして、ユウの大学進学に合わせてマンションに来ることになった」
『ゴタゴタって言うのは気になるが、お前が気にしていないならいいんだ』
「気にする?」
『ああ、いや、こっちの事情だよ。……四月ってことはユウはまだ彼女のとこか?』
「親父、タイミングいいよな。今、部屋の下見で泊まりに来てる」

自分に関することなのにどうして話をはぐらかされなければいけないのかと眉間に皺を寄せたが、話を戻すのもどうかと思ったのでそのまま父親の質問に答える。

『じゃあ、今そこにいるのか!…俺のことは覚えていないのか?』
「曖昧だと思う。話したいのかよ?」
『当り前だろう!彼女のもとに置いてきて、とても不安だったんだ』

答えを聞かずとも、父親の声を聞いて話したいのだろう気持ちは伝わっていたが。

「ティキにぃ、風呂上がったけど……」
「ユウ」
『ユウ?』

タイミングがいいのか悪いのかユウがタオルで髪を拭きながらリビングに入って来て、ああ、と頷く。頷いたのはティキが脱衣所に来なかった理由を理解したからだろう。

「誰からだ?」

ティキが席を外さなかったので、ユウが聞いていい相手なのだろうと理解してティキの隣に座り、首を傾げる。

「親父」
「…父さん、」

一旦耳から携帯を離してユウを見ると、ユウは複雑そうにティキを見上げた。

「親父話たがってるけど、どうする?」
「…俺、父さんのこと殆ど、」
「さっきユウの記憶は親父については曖昧だって言っておいた」
「………」

暫くユウはティキの携帯を見つめていたが、ふと顔をあげて「話したい」と答えた。

「そっか。じゃあ、俺風呂入ってくるから、よろしくな。……もしもし?ユウが話したいらしいから、代わる」

ユウに携帯を渡してソファから立ち上がる。リビングを直前に少し気になって振り返ると、恐る恐るユウが携帯電話を耳に当てたところだった。









「……もしもし」

まさか、こんなに早く父親と接触することになるとは。
携帯電話を耳に当て、ユウはそんなことを思っていた。ユウの予定では、ティキと暮らして暫くしてからのはずだった。

『もしもし』
「っ、あ、その、」

耳にティキと少し似た―だが、ティキより低い―声がして、ユウの体が強張る。

『ユウ、か?』
「……はい」
『久しぶりだな。…って言っても、覚えていないのか』
「すみません、…少ししか」

未だティキに関する記憶も全て思いだせたわけではなく、父親の記憶など無いに等しい。写真と、そして夢で見た“ティキの手を離さないように”と言った父親の姿しか記憶はないのだ。
ユウが殆ど覚えていないことを謝ると、苦笑と、そして『小さかったんだから、仕方がない』という声が聞こえてきた。声はまるで慰めてくれているように優しい。

『離婚してから、ずっとユウのことが気になってた。君は、とてもティキに懐いていたからな、離れることによって何か良くないことが君に起こるんじゃないかと思って』
「よくないこと?」

どういう意味かと問うと、父親は『例えば、幻に悩まされたりとか』と答えた。ますます意味がわからない。

『ティキは……いや、言わない方がいいのか、』
「教えてください」

一度言いかけておいて止めるなんてとむっとすると、父親はティキがユウの幻に悩まされて階段から落ちたことを教えてくれた。

「階段から落ちたって、」
『お母さんから写真が送られてたことは聞いたか?』
「はい」
『離婚したばかりの頃は、あの写真は送られてきていなかったんだ。離婚で俺が養育費を払う条件として君の写真をティキに送ることを約束させていたんだが……あの頃は俺も余裕がなくて気付かなかった。ティキにはすまないと思ってるよ。ティキは、“俺に写真くらいで”って言われるのが嫌だったらしい。ずっと黙っていて、君の声や幻を見て、限界を迎えて、階段から落ちた』
「…ティキにぃ、最近まで俺の声に起こされてたって聞きました」
『まだ声聞いてたのか……』

もう声は聞こえないし幻も見なくなったと言っていたのに、と父親が苦い声を出す。

(…父さんなら知ってるかもしれない)
「あの、」
『どうしたんだ?』
「……その、」

知っているかもしれないとは思ったが、いざとなるとユウは本当に聞いていいのかと口ごもってしまった。

ユウが聞きたいのは、ティキの誕生日についてだ。

ティキは自分の誕生日のことになると固まってしまって、さらには誕生日について聞かれたことも忘れてしまう。

『何でも、遠慮なく聞いてくれ』
「…ティキにぃの、」
『ティキの?』
「……誕生日について、教えてほしいんです」
『誕生日、……そうか、誕生日か、』

父親の優しい声に促されて質問をすると、父親は聞かない方が良かったと思ったのか、ユウの耳に溜息が聞こえてきた。

『まだ、ティキは自分の誕生日のことになるとおかしくなるんだな?』
「はい」
『……あいつが自分の誕生日のことでおかしくなったのは、君が生まれる前からだ。ティキは誕生日と一緒に原因も忘れてしまっているだろうが、あいつが小学校に入学する前にそれが原因で一度離婚するかどうかという話が出た時があった』
「どうして、」
『……虐待だよ。もう傷は薄れてしまってるだろうが、言われてからティキの体をよく見ると気付くだろうな』
「……原因は、母さんですか」
『お母さんだけが原因じゃない。俺が、彼女の不満に気付けなかった所為もある』
「母さん、何したんですか」

誕生日を忘れてしまう程のことなんて、余程ティキにとって嫌なことがあったに違いない。ここまで聞いてしまったのだから教えてほしいとせがむと、父親は母親がティキにしたことを教えてくれた。

『……それで、ティキは自分の誕生日を忘れてしまった。誕生日だけじゃない。あいつ、本当に苦しくなるとその出来事を記憶から消してしまうんだ』
「苦しいことを記憶から、……あ、」

ふと、寝室の床に散らばっていた手紙のことを思い出す。
ユウがいるのにあんなところに手紙を放置しておくのはおかしい。ティキの態度も普通だし、一体何なのかと不思議だったが、ティキがあの手紙のことを忘れてしまったのなら納得がいく。

「あがったぞ。……まだ親父と話してたのか?」
「ティキにぃ、戻ってきました」

ティキが戻ってきたので、話を中断して父親にティキが来たことを教える。

『ティキには、今話したことは言わないでおいてくれ』
「はい。……にぃ、もう一回話すか?」
「いや、いいよ」

飲み物を取ってくると言ってテーブルに置きっぱなしになっていた空のグラスを持ってキッチンへ行ってしまったティキの後姿を確認して、父親にそろそろ通話を終えたいと話す。

『そうだな、二人で話したいこともあるだろ』
「すみません、また話聞かせてください」
『勿論。……今度、二人でこっちに遊びにおいで。母さん…君にとっては祖母さんだが、彼女も会いたがってるよ。何せ、母さんは君とは君が生まれた時に顔を見せて以来会っていないからな。……じゃあ、ティキのことを頼むよ』
「はい」

通話を終えて携帯をテーブルに置くと、丁度ティキが戻ってきた。ティキの手には缶ビールと麦茶の入ったグラスがあり、麦茶の入ったグラスはユウの目の前に置かれた。

「何の話してたんだ?」
「…ティキにぃが、俺のこと大好きだって話」
「は?」

プルタブに指を引っ掛けたティキが「何だそれ」と苦笑しながらビールを開ける。

「…どうした?」
「何でもない」

あまりにじっとティキの体を見ていたからか、ビールを飲むティキに声を掛けられてしまった。

(傷跡なんて、)

父親に言われた傷と言うのが気になっていたのだ。夏場、祖父母の家に泊まった時にティキの上裸を見たことはあるが、気付けなかった。
確認してみたいが、夏の風呂上りと違ってティキはすでに服を着ており、確認することができない。

「ティキにぃ」
「ん?」
「今度、一緒に風呂入ろう」
「風呂?ここの風呂、そんな広くないぞ」
「狭くていいから」
「…いいけど、何でまた急に?」
「何でもいいだろ。小さい時はずっとティキにぃにくっ付いてたんだ」
「…そっか。そうだな」

ティキはまだユウが風呂に入ろうと言いだした理由が気になっているようだったが、父親に小さい頃の話を聞いたことで昔が恋しくなったのだろうと思ってくれたらしい。

「じゃあ、昔みたいに体洗ってやろうか」
「だったら、俺も体洗ってやるよ。小さい頃はできなかったからな」