my... 33


先に風呂に入るように言われ、ユウは温かな湯に浸かって溜息を付いた。
足を伸ばしてもつま先がバスタブの端に付かない。恐らく、ティキが使用しても余裕がある大きさだ。流石は元高級マンションといったところだろうか?

(よくこんなとこで一人暮らしできるよな…)

一人で暮らすには非効率すぎる部屋だ。ユウだったら、金があったとしても絶対にこんなに広い部屋で一人暮らしをしようと思わない。まあ、そのお陰でこうしてユウが泊まりに来て、さらには一緒に暮らすことができるのだが。

(…今度からここで暮らすのか)

ティキと二人で。
今回ユウが泊まりに来たのは引っ越しの為の下見という目的の為なのだが、どうしても実感がわかない。
ティキと暮らすことができるのは勿論嬉しいが、昔と違って滅多に会えなかったティキと毎日顔を合わすことができるというのがなかなか信じられないのだ。突然、やっぱりこの話は無かったことにしてほしいと言われないかという不安もある。
もう契約更新は済んでいると父親を通して聞いているし、ユウは見ていないが父親は契約書類のコピーを受け取り、そこにユウの名前がきちんと書かれていることを確認したと言っていた。必要な家具等が揃っていないだけで、すでにユウはこの部屋に住む資格を持っている。
それでも、実際にこの部屋で暮らし始めなければこの不安はなくなることはないのだろうとユウは思う。昔はティキの言うことなら何でも素直に聞いていたのに、疑り深くなったものだ。

(もう、離れるのは嫌だ)

疑り深くなってしまったのは己の心を守る為だ。
小さい頃、ずっと一緒にいられると信じていた兄と突然引き離された。その所為で、またティキと一緒にいられるのだと思っても、突然の別れを警戒してしまう。最初から疑っておけば、実際にそうなってしまった時の心の傷は浅い。

「ユウ?」
「っ、何?」

急に脱衣所からティキの声が聞こえ、ユウは水音を立てて体を跳ねさせた。戸を見れば、曇りガラスにティキの姿が透けて見える。

「いや、長風呂すぎるかな、って思ったから。のぼせてなけりゃ良いんだ」

長風呂と言われて操作パネルの電子時計を見てみれば、すでに一時間以上過ぎていた。
慌てて湯船から出て曇りガラスの戸を開けると、ティキが苦笑してユウの頭にタオルを乗せた。

「急かすつもりじゃなかったんだけどな」
「もっと早くに声かけてくれてもよかったのに」
「そうか?俺殆どシャワーで済ませちまうからさ、風呂入るとどれくらいかかるのかわかんなくて」

ティキが頭の上に乗せてくれたタオルを使って髪を拭いていると、脱衣所の隅にいたティキがふと口を開いた。その視線は、ユウの背を流れる黒髪を見ている。

「髪伸びたよな、ユウ」
「…そんなに……そうだな、」

そんなに伸びていないとユウは言おうとしたのだが、途中でティキがどういう意味でその言葉を言ったのか理解し、確かに髪は伸びたと頷いた。
ティキは、両親が離婚する前のユウの髪と比べて「髪が伸びた」と言っているのだ。あの頃のユウの髪は大体肩につくかどうかと言うところで切りそろえられていた。
あの頃は、風呂上がりのユウの髪や体を拭くのはティキの役目だった。その為、その頃のユウと今のユウを比べてしまったのだろう。

「…ティキにぃ」
「ん?」
「髪」

タオルを付きだしてじっとティキを見ると、ティキは少し嬉しそうにそのタオルを受け取ってユウの髪を拭き始めた。
そこで、ふと思い出す。

(……そういや、あの頃もそうだった)

十数年前、ユウが風呂から出る時になると呼ばれるわけでもなくティキがやって来てユウを拭いてくれていた。

「偶に、髪拭いて」
「ああ、いいよ」

快く頷くティキを見て、ユウは、ティキはユウがのぼせていないかと様子を見に来たのではなく、ユウが風呂から出たのではないかと思って脱衣所に来たのだと確信した。ティキ自身はなかなか上がってこないユウのことを心配して様子を見に来たと思っているのだろうが、それだけならばユウの無事を確認した後すぐに脱衣所から出てもいいはずだ。無意識のうちに、昔のようにユウの髪や体を拭く為に脱衣所まで来て、そしてユウがタオルを手渡してくれるのを待っていたというわけだ。

(ティキにぃの中の俺は、ガキのままなのか)

楽しそうにユウの髪を拭くティキに、ユウは何だか複雑な気持ちを抱いていた。
偶に、ティキの目には何か特殊なレンズが入っており、ユウが小さな子供に見えているのではないかと思う時がある。勿論、そんなことなどあるはずがないのだが、ユウを見る優しい眼差しが“幼い弟を見守る目”と錯覚してしまうのだ。
まあ、再会してから今までで一緒に過ごした時間はとても短いので、ティキがユウのことをまだ手のかかる子供だと考えてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。だが、それだけではない何かをユウは感じていた。

「あとはドライヤー使うか」
「ん」

ティキがタオルを洗濯機に放り投げ、洗面台下からドライヤーを取り出す。そんなティキの姿を見ながらユウはティキから感じる違和の正体を知ろうとしたが、結局わからずじまいだった。









「にぃ、俺がソファで寝るから、」
「まだユウは客なんだから、お客様扱いされておけよ」

ユウの後にティキも風呂に入り―まあ、風呂とはいってもやけに早かったのでシャワーで済ませたのだろうが―リビングでこれからのことについて相談していると、いつの間にか日付が変わっていた。
まだティキと話をしていたかったのだが、ティキが「また明日もあるから」とユウをベッドに連行して今に至る。
ユウが布団から上体を起こして自分がソファで寝ることを提案しても、ティキはすぐに却下してユウを横にならせようとする。お客様扱いと言うより、子供扱いされているという感覚が強い。酒は飲めないにしても夜更かしするな、ちゃんとベッドで寝ろと注意されるような年ではないのだが。

「じゃあ、明日は俺がソファで寝る」
「頑固だな、ユウは……明日のことは明日考えればいい。兎に角、今日はユウはベッドで寝ること」
「……わかった」

どちらかが折れない限りらちが明かない。そう感じたユウは渋々ベッドで寝ることを了承した。ティキはユウのことを頑固だと言ったが、それはお互い様だとユウは思う。
「ティキにぃももう寝るのか?」
「そうだな、ユウが寝たら寝るよ」
「……俺、一人で寝れるぞ」
「…ああ、そうか。そうだな、じゃあ、俺ももう寝る」

ユウが眠るまで傍に付いてくれるつもりでいたらしい。だが、ユウが誰かが傍にいなくとも寝れることを伝えると、はっとしたような顔をした後苦笑いしてティキは部屋から出ていった。

「…やっぱり変だ」

まるで、ユウが一人では眠れないと思っていたかのような反応に眉を顰める。祖父母の家へ泊まりに行った時、ユウは初日一人で寝ていたので、ティキはユウが一人で寝られることをわかっているはずなのだが……。

「二人きりだから、」

あの時と今で何が違うのかと考え、そして、今回は完全に二人きりだということに気づく。祖父母の家に泊まった際も二人きりになれる時間はあったが、家には祖父母が常にいた。
以前、ティキから母親の浮気が発覚した日のことを聞いた時、ティキはユウを不安にさせてはいけないと必死だったと言っていた。恐らく、浮気が発覚した日一日だけではないだろう。両親が離婚するまでの間、ティキはほぼ一人でユウの世話をしていたに違いない。
そこら辺の記憶ははっきりと思いだせたわけではないので定かではないが、確か、ティキがユウの前からいなくなる少し前にティキばかりがユウの面倒を見てくれていた時期があったはずだ。ティキが学校へ行っている間は母親がユウの近くにいてくれるが、ティキが学校から帰ってくると次の日の朝まで両親の顔を見ないということがあったように思う。
その時の“ユウを安心させなければ”という気持ちが十数年たった今でも、ティキの中にはあるのかもしれない。二人きりの状況になると無意識のうちにユウを一人にさせないようにと行動してしまっているのかもしれない。

「…ティキにぃ、」

ユウはティキとの別れを、ティキとの思い出を封じ込めることによって耐えたが、ティキはずっとユウのことを覚えていた。きっと、この差は大きいだろう。
傍から見ればユウの方がティキに依存しているように見えるが―実際、ティキに携帯の番号を消されて泣いてしまったりするほどに依存してはいるのだが―心の依存度はと聞かれればティキの方が強いに違いない。
ティキの方が依存度が強い。だが、ティキ本人がそのことを認識していないばかりに、平気でユウと離れるようなことをしてくる。

(引き離されるのが怖いって思ってるだけじゃだめだ。俺が、動かないと)

まだ母親はユウがティキと暮らすことを了承していない。いざという時、ティキは平気でアドレスを消した時のようにユウの前から消えるかもしれない。心が傷ついていることに気づかないまま。

(今度は、俺がティキにぃを守る)