my... 2


小さな愛らしい足音が近づいてくる。

「にぃ、にぃー、」

ドアが開く音とともに聞こえてきた少し舌足らずな声に笑ってしまいそうになったが、ティキは何とか耐えて眠っているフリを続けた。

「にぃ!」

一生懸命ティキの体を揺らし、ティキを眠りの世界から引っ張り出そうとする。どうやら、もう目覚めが近いようだ。

「にぃー!うー……」

徐々に呼ぶ声が不機嫌になってきたので、ティキは仕方なく眠りの世界から目覚めた。ベッドの傍には誰もおらず、愛らしい声も聞こえない。だが、ティキはそれを気にすることなくベッドから降り、クロゼットから着替えを取り出してバスルームへ向かった。

ティキが気にしていないのは当然のことだ。あれは、ティキが見ている夢に過ぎない。

ティキには年が8つ離れた兄弟がいる。先程の夢に出てきたのは、その弟だ。名前はユウと言って、もうじき18の誕生日を迎える。ユウと直接会うことはできないが、母親から行事があるごとに送られてくる写真で元気だと言うことは知っている。
常にティキの傍にいたがった小さなユウを可愛がり、近所でも仲の良い兄妹だと言われていたが、それは14年も前のこと。14年前、両親が離婚し、ティキを引き取った父親に会うことを禁止されて以来一度も会っていない。
母親から送られてくる写真に添えられている手紙によれば、ユウはティキのことを覚えていないのだそうだ。それどころか、今の父親を本当の父親だと信じており、母親が離婚したことすら知らないらしい。ユウはあの頃3歳で、覚えていなくても仕方がないが、それが成人して一人で暮らすようになってもティキがユウに会いに行けない理由だった。ティキは写真でユウの成長する姿を見ているが、ユウはティキのことを何も知らない。会えばいつかユウはティキが兄だと知ることになるだろうが、今の家族との仲を拗れさせたくない。

シャワーを浴びつつ頭の中で今日の予定を確認し、帰るころには日付が変わっていそうだと溜息を吐く。昨日体調を崩して早退したから、机の上に仕事が山積みになっているはずだ。
バスルームを出た後は冷蔵庫にあるもので適当に料理をし、テレビで天気を確認しつつ食事をする。食後、空になった食器を手早く洗い、一杯になったゴミ袋を縛って玄関の隅に置いておく。置いた後はダイニングに戻らずバスルームへ向かい、脱衣所に設置された洗面台の前で歯を磨き、邪魔な前髪を後ろに持ってきて後ろ髪と合わせて結ぶ。ティキの髪は天然で癖の強いパーマがかかっており、結んだ髪とそうでない髪をグシャグシャと混ぜれば結んだ場所はわからなくなってしまう。
これらの一連の動作はティキに退屈な一日の始まりを教えてくれる。何か新しいことを望んでいるわけではないが、少しくらい違うことが起こってもいいのではないかと思う。

「行ってきます」

誰かが聞いているわけでもない一言を呟くと、ティキはゴミ袋を掴んで外に出た。

「あら、おはようございます」
「おはようございます」

ゴミ捨て場で同じマンションに住んでいる女性に出会った。ティキの一つ上の先輩の妻だ。ティキの住んでいるマンションはティキが務めている会社が寮として所有している物件で、会社の同僚やその家族に会うのは珍しいことではない。特にこの女性は、会社の飲み会の際によく酔っ払った旦那を迎えに来るので覚えている。

「ミックさんは流石ね、うちの旦那にもゴミ捨て位してもらいたいわ」
「奥さんがいるから頼り切っているんでしょうね。俺は一人暮らしなので俺がやらないと部屋が汚れていくばかりですから」
「あら、もういい人がいるんだとばかり……」

目を見開く女性に苦笑し、一礼した後ゴミ捨て場を後にした。
どう言うわけか知らないが、女性は皆、ティキが一人身であることを知ると先程の女性と同じような反応をする。確かに、このマンションは一人暮らしには広い物件だが、それでも住んでいるという一人身はティキだけではない。
一人で十分やっていけるし、彼女の必要性を感じない。それに、万が一誰か良い女性に巡り合えたとしても、ティキにはその女性と上手くやっていく自信がなかった。両親がそうだったからと言うわけではないが、必ず何か不和が生じる気がして手を出そうという気になれない。

車に乗り込んで慣れた道路を走って会社へ向かう。途中、若干の渋滞があったが、会社に遅刻するほどではなかった。

「おはようございます、ミックさん」
「おはようございます」
「体調は大丈夫ですか?」
「お陰様で」

受付に挨拶をし、扉が閉まりかけていたエレベーターに滑り込む。無理矢理扉を開けたので一瞬気まずい空気が流れたが、その行為をしたのがティキだとわかると、エレベーターに乗っていた女性社員は頬を染めて「おはようございます」とティキに挨拶をしてきた。男性社員は仏頂面をしているが。
ティキが降りる階が押されていなかったのでボタンを押し、数十秒間、不機嫌な男性社員の隣で大人しく降りる階に到着するのを待つ。ティキが降りてからも男性社員はエレベーターを降りなかったため、もしかしたら結構な役職の人間だったのかもしれない。ティキの務める会社はランクによって階がわかれており、ティキがいる階の一つ上からは重役社員の机がある。

「おはようございます」

もう何度目かわからない挨拶をすると、先輩が上機嫌でティキを迎えた。

「昨日は心配したけど、もう平気みたいだな!」
「早退させてもらったお陰ですよ。ありがとうございました」

ティキがこの階で唯一先輩と呼んでいるのはこの階の責任者で、彼の許しがなければ早退することは許されない。医務室へ行って休むことはできるが、必ず帰って来なければいけないのだ。

「その分、今日はしっかり働いてもらうからな」
「そのつもりで来てます」

先輩の肩越しに見えるティキの机には、ティキが想像していたとおり書類が山積みになっており、確実に定時には帰れない。残業代が出るのでそこまで不満はないが。








「お、手紙来てる」
予想通り全ての書類に目を通し、マンションに着いた頃、時刻は深夜0時を過ぎていた。
ダイニングテーブルにポストの中から出してきたものを置き、必要なものとそうでないものを分別していると、ティキがいつも楽しみにしている母親からの手紙が入っていた。
不要なものを全て処分し、お楽しみの母親からの手紙の封を開けて中身を取り出す。封筒の中には、不機嫌そうなユウが白髪に近い髪色の少年と映っている写真と、母親の手紙が入っていた。暫く写真を眺め、満足したところで手紙に目を通す。
母親の手紙は珍しく二枚あった。
一枚目はいつもと同じく写真についてのことで、今回同封した写真は家族でドライブに出かけた時に撮ったものだと書かれている。ユウと一緒に映っているのは弟だと書かれており、ティキはここで初めて、自分と血が半分繋がった弟の顔を認識した。母親の手紙でアレンという弟の存在は知っていたが、顔を見たのは初めてだった。
二枚目には、最近のユウの様子が書かれており、ティキはそれを読んで顔を顰めた。手紙によると、ユウが放課後に知らない男と食事をしたりと何やら宜しくない商売をしているようなのだ。母親本人が確認したわけではないが、母親の友人が、ユウが見ず知らずの男性と一緒に歩いているのを目撃したのだという。
友人の見間違いだと思いたいが、最近ユウは一緒に夕食を食べようとせず、その他にもおかしいところがいくつかある。もしかしたら、知らない男と一緒にいたのと何か関係があるのかもしれない。調べたいが、自分が動くと家族が気づいてしまうかも知れない。夫やアレンにはこのことを話していないので、知られたくない。だから、力を貸してほしい。

「俺が?」

手紙の最後の一行を見て眉を顰める。母親は、ティキにユウのことを調べてくれないかと言っているのだ。散々、今までの手紙で「写真は送るから何も知らないユウには会わないでほしい」と書いておきながら。
腹が立ったが、上手くいけばユウに会えるかもしれない。
そう思ったら、自然と笑みが零れた。