「ティキにぃ、釣り楽しいか?」
「楽しいっつーか、晩飯の材料になるんだから、多めに釣らないといけないだろ」 ここの魚は小さいし。そう言われ、ユウはちらっと氷水の入った発泡スチロールの箱を見た。一人最低でも二匹は食べることができる数の魚が入っているが、確かに一匹一匹は小さく、おかずと言うには物足りない。 少し口を尖らせ、ティキの隣に座ってゴロゴロと転がっている小さな石の隙間から生えた草を毟り取る。 一時間程前から、ティキは魚を釣り上げてはまた釣り糸を垂らすの繰り返しで、ユウのことを気にしてくれない。ユウも最初はティキにならって釣りをしていたが、飽きてしまった。 釣りをするティキとそれを見ているユウから少し離れたところでは、男子学生らしきグループがバーベキューをしつつ川遊びをしている。流れる水の音と木々が風に戦ぐ音に混じって、何を話しているのかは分からないが楽しそうな声が聞こえてくる。 「…ティキにぃ」 「んー?」 「棚直してる最中に、差し入れあった?」 「ねぇな」 「俺、ゼリーと麦茶貰った」 「へぇ、」 「すっげー甘かった」 「まあ、甘い物は頭にいいとか聞くしな」 「ティキにぃ、いつも食事中注意されるのか?」 「されない時もあるけど、殆どはされてる」 ユウが何を言いたいのか思いつかないのか――考えていないのかもしれないが――ティキの返事はとても軽い。 言いたいことがなかなか伝わらず、さらに周りに毟る草がなくなってしまったユウは、苛々して手頃な石を掴み、川に投げた。 「あ、こら、ユウ」 「婆さん、ティキにぃに冷たいと思う」 投げた石は丁度ティキが釣り糸を垂らしている辺りに落ち、ティキがむっとしてユウを見る。やっと自分の方を見てくれたティキの目を見てはっきりと言いたかったことを言ってやると、ティキはきょとんとした後、返答に困ったように顔を反らした。 「……そうか?」 「だって、俺や弟には全然注意しないんだ。弟なんか、食い物口に入れたまま喋ることがしょっちゅうあるのに、ニコニコ見てるだけだ」 「それはまあ、何つーか、ユウ達がまだ子供だからだろ。俺は社会人だしさ、社会人としてのマナーっての?」 「けど、ティキにぃ、外だとちゃんとしてる。頼りになる感じするし、見習いたいって思う」 釣りをする気が失せたのか、ティキが釣り糸をくるくると釣り竿に巻き付け、発泡スチロールの箱の隣に置く。箱にしっかりと蓋をすると、ティキは先程ユウがやったように石を掴み、川に向かって思い切り投げた。 「婆さんが言うにはさ、俺は親父と行動が似てるらしいんだよな」 「…だから嫌なのか?」 「嫌ってわけじゃなくて、心配してるんだろうな。俺が親父と同じようなことするんじゃないかって」 「浮気とか?」 ユウの言葉に頷き、ティキが再び石を投げる。石は一度だけ水面で跳ねた後、ぽちゃんと川に飲み込まれた。 「飯食う時にいただきますって言わねぇのも、頬杖ついて飯食うのも、親父が良くやってた。俺は親父に引き取られて、何年もそれ見て育ったから、まあ、それが当たり前みたいに思ってたんだよな。いつの間にか自分も癖になってたな。俺は、二人が離婚したときのことを覚えてるし、あんなのは絶対に嫌だと思う。けど、婆さんにしてみりゃ、親父と似たような行動取られたら、不安になるんだろ」 「…じゃあ、母さんは?」 「何が」 「母さん、離婚した後すぐに再婚してるんだろ。本当に離婚した原因は、父さんの浮気だけなのか?」 それは、今の父親と血が繋がっていないことを知ってから、ずっとユウの中で燻っていた疑問だった。ユウが盗み聞きをして知った限りでは、父親の浮気に原因があるようだが、それはあくまで祖母が言っていたことだ。祖母は母親の身内であり、それならば母親の味方をするに決まっている。 両親が離婚した当時、すでに物心が付いていたティキなら知っているかもしれないと話を切り出すと、ティキは少し考えた後、口を開いた。 「浮気をしたのは、母さんが先だったな。多分。言っとくけど、そこら辺は自信ねぇからな。本人に聞いたわけじゃねぇし」 「じゃあ、母さんが悪いんだ」 「母さんのこと嫌うなよ」 「………」 ユウが黙ると、ティキは溜息を吐いてユウの頭を撫でた。慰めというより、ただ何となく撫でているような手つきで、乱暴ではないがとびきり優しいわけでもない。 「ユウが小さい頃、よく俺が抱っこしたり、手繋いだりして面倒見てたんだ」 「……母さんが浮気してたから仕方なく、とか言わないよな?」 「そりゃあねぇよ。ユウの面倒見るのは楽しかった」 はっきりとした返事が返ってきたので、ユウはほっと胸を撫で下ろした。もし嫌々ユウの面倒を見ていたのだとしたら、ユウがティキと会いたがったりするのは迷惑になってしまう。 「母さん、あの頃子育てにちょっと疲れてたんだ。ユウはめっさ良い子にしてたけど、親父は平日は全然俺達のこと世話しねぇし、勿論家事もしない。休日も、親父の気が向いたときにしか家のことしてなかったな。子供二人の面倒見て、しかも家事だろ?それで相当参ってた時に、近くにユウの今の親父さんが引っ越してきた」 「……母さん、あの人と絵画教室で知り合ったって言ってた」 「あ、馴れ初め聞いてたか?そういうこと。最初は、親父があまりに母さんがイラついてるのを見て、気分転換に通ってみたらって言ったのが始まりだった。取り合えず週一で一時間。その間は、俺はユウ連れて、アルマの家に行ったりしてた。公園で遊んだりな。で、いつからだったか忘れちまったけど、その週一一時間が週二回に増えて、三回に増えて、親父が家にいる休日は一日中って時も珍しくなくなった。化粧も服装もしっかりしてったりな。絵画教室なのに」 「それ、明らかに、」 浮気としか言いようがない。ティキの口から話される母親の行動にぽかんとしていると、ティキは「母親のことはいったん置いといて、」と言って、今度は父親の話をし始めた。 「母さんが絵画教室に行って家のことをやらなくなり始めたら、今度は親父が家事をやり始めた。まあ、一応親父なりに反省したのかもな。母さんが出かけてる間によく、「勤めてて良かった」って愚痴こぼしてたから。一時は、もしかしてまた家族で出かけたりできるかも?何て考えてたな、俺も。親父が家事と子育てに協力的になり始めて。休日は、母さんが絵画教室に行ってる間、車使っていろんなとこ連れてってくれた。後は母さんが、親父がこれだけ協力的になったことを知れば良いと思ったよ」 「母さん、気付かなかったのか?」 「ああ。気付かなかった。絵画教室から帰ったら食事が用意されてたことも、洗濯に掃除が終わってたことも、全部気付かなかった。誰がやったのか意識してなかったって言った方が正しいのかもしれねぇけど」 「…何か、父さんが可哀相だ」 折角心を改めたのに、それが伝わらなかったとは…。全く記憶にない父親に同情し、父親の気持ちに気付かなかった母親に対して苛立ちが募る。 「親父が浮気する原因になったのは、母さんとユウの今の親父さんが一緒に出かけてるのを見たからだ。俺たち連れて夕飯の買い物行ってる時に、丁度同じ所で買い物してた二人を見た。バッタリ出くわしたっていうより、親父が遠くにいる二人に気付いたって感じだな。俺はユウの面倒見てて気付かなかったけど、気付いてたらヤバかったと思う。母さんが行ってる絵画教室の先生の顔なんて知らなかったから、母さんが知らないオッサンと買い物してるって。教室の先生だと思えば、頭の中で何とか理由をこじ付けできただろうけど、後からあの人は絵画教室の先生で一緒に買い物に行ってたの、何て言われても信じられないだろ?二人に気付いてない俺らのこと考えて、その場で問い詰めるようなことはしなかったけど、その代わり材料買って家に戻って俺達置いたら、すぐどっかいなくなった。親父たちが話し合いしてる時にちらっと聞いた感じだと、まあ、そういう店に行ったらしいな。その日の夜は、母さんも帰ってこなかったし、俺とユウ二人だけだった。思えば、あの時初めて一人で飯作ったな。ユウは何も知らねぇし、不安がらせちゃ不味いと思って必死だったよ」 「…子供置いて二人とも何やってんだよ、」 「先に母さんが帰ってきて、帰ってきた親父から知らない香水の匂いがして、親父が何してきたのか気付いた。離婚したのは、それからすぐ後」 「要約すると、離婚の原因は母さんってことか?」 離婚の原因が父親の浮気というのなら、その浮気の原因を作った母親が元凶なのかと言うと、ティキはそれは違うと言ってユウの考えを否定した。 「二人とも悪い。そうなるまで話し合おうとしなかったからな。母さんは親父に家事、子育てを手伝って欲しかったけど、言わなかった。親父は、母さんの希望に気付かないで、気分転換でもすればまた元気になるだろうって、絵画教室を勧めた。話しあってたら、こんなことにはならなかった」 「……俺達のことは考えなかったのか?」 「考えはしたんじゃねぇか?けど、限界だったんだろ。結構耐えたと思うぜ、二人とも。母さんは最初俺も引き取ろうとしてたみたいだけど、婆さんと祖父さんが二人も引き取ったら生活できないって言って反対した。まあ、母さんにしてみりゃ、もう再婚相手は決めてたんだから、生活できるって思ってたんだろうけどな。流石に、離婚の話し合いの最中にもう相手はいるからなんて言えないだろ。ああ、俺が親父に似てたから嫌だってのも、あったかもしれない。母さんが祖父さん達に何て説明したのかは知らねぇけど、まだ婆さん達は親父の浮気だけが原因って思ってるみたいだし?まあ、ちゃんと孫とは思ってくれてるみたいだから、感謝はしてる」 「……ティキにぃ、よくそんな他人事みたいに話せるな」 ユウは、ティキの話を聞き、母親や父親への感情を通り越して辛くなってきていたが、ティキは顔に出していないだけかもしれないがけろっとしている。 「正直、もう過ぎたことだしな。一番不満だったユウと会えないって問題も解消できたし。今どっちも楽しく暮らしてるなら、まあ離婚して良かったのかもしれないと思ってる。…暑くなってきたな。ちょっとだけ川入っていくか?」 話すことを全て話したのか、ティキが立ち上がって家を出る前に着替えたシャツを脱ぐ。サンダルを脱ぎ、パンツの裾を捲り上げて川に足を踏み入れたティキだったが、ふと足を止め、ユウの方を見た。 「一つだけあった。当時はそうでもなくて、今になって不満に思うこと」 「……何」 「二年くらい二人には我慢してもらって、離婚すんの遅らせてほしかった。そんだけ」 ティキはそれ以上何もいわなかったが、ユウにはティキの言いたいことが何となくわかった気がした。 「ティキにぃ、待って、俺も入る」 サンダルを脱ぎ、ズボンの裾を捲ってすでに川に入っているティキを追いかける。ユウが近づいてくるのを見て、ティキが嬉しそうに笑った。 二年経てば、ユウも物心付きはじめ、幼いながらも兄がいたことを覚えていただろう。 「どうした?」 ユウが追いついてそのすらりとした体に抱きつくと、ティキは苦笑しながらユウの頭を撫でる。今度はとても優しい手だ。 「…ティキにぃ、」 「ん?」 「…何でもない」 ユウが責任を感じるから言わなかったのかもしれない。それでも、ティキの気持ちは痛いほどに伝わった。 |