my... extra 1


「ティキ、準備できたか?」
「できた」

 夜、父親から声をかけられると、ティキは傍らに置いていたスポーツバッグを持ち上げて部屋を出た。
 音を立てないように気をつけながら父親の後ろを歩いていたティキだったが、ある部屋の前で足を止め、閉じられた戸を見る。奥には、ユウが母親と眠っているはずだ。

「ティキ」
「…わかってるよ」

 ユウが起きてはまずいと父親に急かされ、重い足を動かして玄関に向かう。
 玄関に着くと祖父母が二人を待っていた。スポーツバッグを持ったティキを見て祖父が肩を叩き、また来いと声をかける。

「お前は、ワシの孫だからな」
「…うん」

 父親が靴を履いたのでティキも靴を履いて、父親の隣に立つ。

「今まで、ありがとうございました。ユウのこと、よろしくお願いします」
「ええ。貴方こそ、ティキのことをよろしくお願いしますよ」
「はい」

 短い挨拶をして祖父母の家を出る。もう、この家に入ることはないだろう父親だったが、車に乗って、家が遠ざかっても、一度も後ろを気にすることはなかった。

「引っ越し業者は明後日くる。梱包も頼んであるから心配しなくていいぞ。いらないものだけ、ゴミ袋に入れておいてくれ」
「うん」
「…眠いなら寝ておけ。家に着いたら起こすから」
「いいよ、起きてる」

 背もたれに寄りかかり、真っ暗な田園を眺める。ここら辺は似たような景色ばかりだが、それでも、この辺はユウと二人で遊んだ場所から遠く離れた場所だとすぐにわかった。
 未だ、両親が離婚したという実感がない。ティキをからかっているのではないかとも思う。
 だが、いつもなら母親が座る助手席にティキが乗り、そして、ティキの隣にはユウがいない。

(…離れてみれば、あっけないものなんだな)

 今朝方散歩に行った時、ユウの小さい体を抱きしめて離れたくないと涙を滲ませた己が嘘のようだとティキは思った。悲しいという気分でも、寂しいという気分でもない。

「引っ越し先、アパートだっけ?楽しみだな」
「そうか?」

 ティキが田園風景から目を離して父親に話しかけると、父親がほっとしたように頬を緩める。そんな父親の反応に、心配させていたのだなと感じ、無意識のうちにティキの口が笑みを作る。

「男二人って言うのも悪くないよね」
「部屋汚すなよ?」
「父さんこそ」









「これはいらない……これは、どうしようかな」

 家に戻ったティキは早速、自分の部屋に戻っていらないものをゴミ袋に投げ込む作業をしていた。いつもなら寝ている時間なのだが、どういう訳か眠気が襲ってこなかったのだ。

「…捨てていいか。誰からもらったのか覚えてないし」

 そう言ってティキが袋に詰めたのは机の中から出てきた手紙の束だった。ティキが学校に行くと大抵机の中に入っており、下校時に初めて机の中からくしゃくしゃになって発見される哀れな手紙たちだ。
 引っ越ししても学校は変わらないし、その手紙を書いてくれた子たちにも会う機会はあるとは思うのだが、中身を見る気のない手紙をいつまでも持っていても邪魔になる。

「あとは…ああ、」

 ふとベッドを見て、ティキの代わりにベッドで眠っていたものを見てティキは苦笑してしまった。
 奇麗にベッドメイキングされたベッドで眠っていたのは、黒い猫の縫いぐるみだった。ティキが家庭科の授業で作り、ユウにプレゼントしたものだ。祖父母の家へ行く直前までユウはティキの部屋で遊んでいたので、こんなところで眠っているのだろう。
 ユウは気に入ってくれているようだったので、捨てたら泣くだろうか?そんなことを考えながら手に取り、部屋を出る。

「父さん」
「どうした?」

 電気が付いているダイニングへ行くと、父親も眠れなかったのかごみ袋を傍に部屋の整理をしていた。

「母さん達ってさ、もう引っ越し済んだんだっけ?」
「ああ、昨日のうちに母さんの友人が立ちあって済ませたらしい」
「そうなんだ…どうしようかな」
「何だ?」
「縫いぐるみ、ユウにあげたやつなんだけど俺の部屋に置いてあった所為で置いて行かれたみたいだ」
「持っていくか、持っていかないようなら捨ててしまえ」
「そうする」

 部屋に戻る途中、母親の部屋を開けてみると、確かに何もなかった。思えば、ダイニングの棚も減っていたような気がする。母親の新しい引っ越し先に送ったのか、処分してしまったのかはわからないが、母親が何らかの方法で家から出すよう指示したのだろう。
 ベッドに座り、暫くは猫の縫いぐるみを見て考えていたティキだったが、ふ、と息を吐くと縫いぐるみを袋に投げ捨てた。ティキが持っていったところで、ユウに渡せるわけでもない。

「…思ってみれば、これも要らないな」

 縫いぐるみを捨ててみると、今まで取っておこうと思ったものもどうして必要だと思ったのかわからなくなり、ティキはいるものだとしてゴミ袋に入れずにいたものを片っ端からゴミ袋に投げ込んでいった。
 朝方、朝食を作った父親が呼びに来た頃には、ティキの部屋の前はゴミ袋だらけになり、残ったのは少しだけの衣類と勉強道具だけになった。

「お前、寝てないのか?」
「あ、もう朝?…掃除に夢中になってた」
「…全部捨てるのか?」

 奇麗になった部屋で立っているティキに、父親がティキが部屋の前に置いておいたゴミ袋を見せる。中には、ユウが描いた絵が沢山詰め込まれていた。

「捨てるよ。何で?」
「少しくらい持って行ってもいいんじゃないか?」
「どうして?」
「…お前が、いらないならいいんだが……飯できたから、食べてしまおう」

 父親がキッチンへ戻り、ティキもそれに続いて部屋を出る。

「………」

 廊下に置かれたゴミ袋の中に、クレヨンや色鉛筆で描かれた絵を多数見つけたが、ティキはすぐにそれから目を背けて父親の手伝いをしにキッチンへ向かった。









「…まだ来ない」

 学校帰り、広告しか入っていないポストを見てティキは溜息を吐いた。チラシを握りつぶし、階段を駆け上がって部屋に入り、酒の匂いに顔を顰めて足を進める。

「父さん、寝るならベッドで寝ろよ」
「……何だ、帰ったのか?」
「片付け、やっとくから」

 リビングに入ると、酒の瓶や缶が転がり、父親は壁に寄りかかるように寝ていた。
 そんな父親を起こしてリビングから押し出し、無理矢理ベッドに寝かせて片付けを始める。今日は空き缶が3つに瓶が1つ。少ない方だ。
 離婚し、今の暮らしになってから半年になる。二人暮らしが始まってからと言うものの、父親は休みの日には酒を飲み、夜は女遊びへ出かけるという生活を続けている。土日が休みな訳ではないので、こうやってティキが学校から帰ってきた時に酔っ払って眠っていることもよくある。家事は専らティキの仕事だ。
 瓶と缶を濯いで中を洗い、逆さにして流しに置いておく。冷蔵庫を確認すると食材らしい食材もなかったので、テーブルの上に置かれた父親の財布を取って外へ出た。
 暮らしに不満があるわけではない。
 家事も半年もすれば慣れたものだし、金にも困っていない。

 ただ、唯一つ、不満をあげるとするならば、母親からの手紙が来ないことだった。

 離婚時の取り決めで、母親は養育費を父親から受け取る代わりにティキ宛てにユウの写真を添えた手紙を月に一度送ることになっている。それが、まだ一通も来ていない。
 一ヶ月目、いつまで立ってもやってこない母親からの手紙に痺れを切らし祖父母の家に電話をしてみたら、もう家にはいないと言われた。どこへ行ったのかと尋ねても教えてはくれず、母親とユウの居場所はもうティキにはわからない。

――にぃ、あそぼ――

「っ、」

 ふと聞こえた声に後ろを振り向くが、すぐにそんなはずはないのにと自嘲する。
 何度目かは途中で数えるのをやめてしまったのでわからないが、ティキは偶にこうしてユウが傍にいる幻を見てしまう。朝はそれが顕著にあり、今、ティキを起こしているのはユウの幻だ。家に帰ってきた時におかえりと言ってくれる時もある。
 全て自分の妄想だとわかっているのだが、それを見る度に今ユウは何をしているのか、寂しがっていないかと心配してしまうのだ。

「いらっしゃいませ」

 スーパーに入ってカゴを持ち、慣れた手で食材を入れてレジに並ぶ。以前は菓子のコーナーをよく見ていたが、この暮らしになってからは全く近寄らなくなった。そこに行っても、これが欲しいと言って明るい笑顔を見せる存在はいない。
 さっさと帰ろうと会計待ちの列に並び、隣のレジに並ぶ親子を見る。ユウと同じくらいの子供がお菓子を持ち、母親に買ってほしいと駄々をこねているところだった。

(ユウはあんなことしたこと無いな)

 もともと、ユウが多くを欲しがらない子供だったというのもあるのだろうが、ティキはユウと一緒に買い物に行って一度も、あのような場面になったことはなかった。どちらかと言えば、ユウは母親が買ってあげると言うまで欲しがらない子供だった。まあ、買ってあげると言えば、嬉しそうに菓子を手に取るのだが。

「ただいま」

 寝ている父親がお帰りと言う訳もないが、とりあえず声を出し、キッチンへスーパーの袋を運ぶ。
 まだ夕食まで時間があったので部屋で宿題をし、きりのいいところで止めて夕食を作り始める。作れる料理が殆どないので、この半年、似たような料理ばかりだ。

「…何だ、帰って来てたのか」
「ベッドで寝るようにって言っただろ、俺」
「……」

 ここ数日続くことになるカレーを煮込んでいると、目を覚ました父親がキッチンに入ってきた。父親の帰ってきたのか、というのは買い物から、ではなく学校からという意味だ。ティキが寝ていた父親にベッドで寝るように言ったことが記憶にないのだ。
 父親は水を飲むと頭を押さえ、頭痛がするのか顔を歪める。見かねたティキが二日酔いに効く薬を渡すと礼を言ってそれを受け取り、一気に飲み干す。

「ティキ、お前少し休んだ方がいいんじゃないか?」

 まだ薬が効いてはいないのだろうが、薬を飲みほし、再び水を飲んだ父親がティキの顔を見て話しかけてくる。

「夜はちゃんと寝てるよ」
「じゃあ、熱でもあるか?」
「ない」

 父親が額に手を当ててこようとしたのでその手を掴み、代わりにティキが持っていたお玉を握らせる。

「もう少し煮込みたいから、様子見てて」

 返事を待たずにキッチンから出て自室に入ると、ティキは壁に背を預けて俯いた。
 毎朝洗面台に立って鏡を見るが、疲れているような顔はしていないはずだ。ただ、ユウのことが気になっているだけ。

「……ユウ」

――にぃ、にぃ――

「ユウ?」

――にぃ――

 ぽつりと呟いたユウの名前に、本当にユウが応えた気がしてもう一度名前を呼ぶ。すると、やはり、どこからかユウの声が聞こえてきた。

「どこだ?ユウ、」

――あそぼ、にぃ――

 声に誘われるままに部屋を出て、玄関までやってくる。靴を履いていると父親がキッチンから顔を出した。

「どこ行くんだ?」
「ユウの声がした!」

 父親の返事を待たないままに玄関のドアを開け、左右を見るが、ユウの姿はない。

――こっち――

 再び声がした方へ足を進めると、階段下側の踊り場に小さなユウの姿があった。

「ユウ、そこは危ないよ」

 母親の姿はなく、慌てて階段を駆け降りる。だが、ティキが降りると、ユウはにこにこと笑ってさらに階段を下りていこうとする。

「っ!!」

 おぼつかない足取りで階段を下りていくユウが足を踏み外し、小さな体がつらりと傾く。自分は怪我をしてもいいから、とにかくユウを助けなければ。そんな必死の思いで手を伸ばす。
 だが、のばされたティキの手は落ちるユウの体をするりと通り抜け、ユウの体も消えてしまった。

「ティキ!」

 上から父親の声がして漸く気づく。

(わかってたのに)

 はっきりとユウの姿が見えてしまったから、幻だと思えなかった。









「大丈夫か、ティキ」

 ティキが目を開けると、すぐに父親が声をかけてきた。父親の方を見れば、その顔はとても心配そうな表情をしており、ティキは一体どうしたのかと眉を顰める。

「お前、アパートの階段から落ちたんだぞ」
「…そうだっけ」
「覚えてないのか?ユウの声がするって言って家を飛び出して、」
「…ああ、そっか」

 体を起こそうとしたが、殴られたかのような頭の痛みに起き上がれず、父親に今が何時なのか尋ねる。確か、階段から落ちる前、ティキは夕食の準備をしていた。横目で見える窓のブラインドは閉じられており、今が一体何時なのかわからない。

「八時過ぎだ。打ち所が悪かったら死んでいたと言われたぞ。手首を捻ったくらいで、後は目立った外傷はないらしいが、今日は念の為病院に泊まって行け、だそうだ」
「あれ…ここ、病院?」
「何だ、気づいてなかったのか?」

 父親に尋ねられ、苦笑する。確かに見慣れない部屋だと思っていたが、病院という考えが頭になかった。

「…何があった?」
「……ユウが、階段から落ちそうになって、」
「ユウは、俺たちの住んでいる場所を知らない。来るわけがないだろ」
「わかってる。……わかってたけど、」

 わかっていても、幻のユウが階段から落ちそうになっていたら、焦って冷静に考えられなくなってしまった。

「あんなにはっきり姿が見えたのは初めてだったんだよ」
「前から見えてたって言うのか?」
「見たことは殆どない。…でも、声はずっと聞こえてた。にぃって、あそぼって、俺に話しかけてくれてた」
「ティキ………」

 父親にこうして打ち明けたのは初めてで、徐々に目頭が熱くなってくる。痛みのない右手で目を隠すと、再び口を開いた。

「我慢できると思ったんだよ、ユウがいなくても……けど、半年間、ユウが何してるのか、何もわからなくて、」
「半年って、月に一度手紙が来ることになってるだろ?」
「そんな手紙、一度も来たことない」

 父親が息を飲むのを感じた。

「来てない、手紙なんて。父さん、気付かなかっただろ」
「どうしてもっと早くに言わなかったんだ、」
「言ってどうにかなるって思わなかったから」

 酒を飲み、女遊びばかりしている父親に母親からの手紙が来ていないと言っても、流されるだろうと思っていたのだ。そして、手紙が来てないと言って「仕方ない、諦めろ」と言われるのが嫌だった。

「…悪かった」
「いいよ、もう」
「明日迎えに来るから、今日はもう休め」

 父親が頭を撫で、病室を出ていく。

 一人になると、ティキは深く息を吐いて目を閉じた。謝罪の言葉を貰ったところで、ティキの心が晴れるわけではない。









「ティキ」
「あれ、今日帰り早かったんだ?」

退院してから二週間。学校から帰り、鞄を部屋に置いて宿題を取り出していると、父親が部屋に入ってきた。
スーツ姿だったので会社から帰ってきたのだと思って声をかければ、父親は首を横に振り、「会社には行ってない」と言う。
 ティキがだったらどうしてスーツを着ているのかと首を傾げると、父親は机の上に封筒を置いた。

「これ、」
「ちゃんと、月に一度手紙を書くように約束させた。もう大丈夫だからな」

 封筒を開けると、母親の字で書かれた『必ず手紙を書きます。すみませんでした』という手紙に、ユウの写真が三枚入っていた。

「ユウ……」

 どの写真に映ったユウも寂しそうだ。ティキが見たことのないおもちゃや縫いぐるみを弄って、しょんぼりとしている。

「…母さんと会ってきたんだ?」
「ああ。ユウとは会えなかったが」

 封筒に宛名が無いので、そんな気はしたのだ。

「…ありがとう」
「気づかなくて悪かったな、ティキ」
「ううん。これから、手紙届くんだよね?」
「ああ。もし届かなかったら、すぐに俺に話してくれ」
「うん」

 父親が部屋から出ていき、ティキは改めて写真に映るユウを見た。

――にぃ――

 父親には言っていないが、ティキにはまだユウの声が聞こえる。朝も、眠るティキを起こしてくれる。

「…もう、大丈夫」

 それでも、もうユウの幻に振り回されることはない。ティキはふ、と笑って目を閉じた。