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「何を不貞腐れている」
「何でもありません」

ダイニングテーブルの椅子に座るクロスがユウの態度を見て溜息を吐く。そんなクロスの姿を見つつ、ユウはいらいらとして鍋のシチューを掻き混ぜた。
普段、クロスの表情や行動一つ一つに気を付けているユウだったが、今日はそんな気分になれない。
夕方、ユウは帰ってきたクロスに男として生活をしたいと懇願したのだが、クロスはユウが必死でお願いしているにもかかわらずあっさりとユウの頼みを却下した。それどころか、その発言に至った出来事―昼間のトイレのことだ―を話したら思い切り笑われてしまい、フォローの一言も言ってくれない。クロスが女として生活するよう言ったから、ユウは女子トイレに入らざるを得なかったのだ。フォローや、「それはすまなかったな」の一言くらい欲しいと思っても罰は当たらないはず。

「ばれなかったならそれで良かっただろうが。第一、今更ティキに男だとばらしてどうする?あいつはお前が女子トイレに入ったところを見てるんだろう?」
「……そうですけど、」
「変態だと思われたくなかったら、今のまま生活を続けろ。大体、お前が勝手にあいつと行動したからそんな目に遭ったんだろうが。俺の所為じゃねぇ」
「…だったら、最初に絵画展の会場近くにティキさんの会社があるって言ってくれればよかったんです。言っておいてくれれば、あんなに歩くこともなかったのに」

 ティキの会社があの近くにあることを知っていれば、少しは警戒して昼食を食べずに家に帰って来ていたかもしれないのに。そのようなことをむすっとした顔で言うと、クロスが椅子から立ち上がり、ユウの後ろへとやってきた。
クロスの手がユウの怒りで固くなっている肩に触れ、ゆっくりと、何度も撫でる。その手付きに性的なものを感じたユウは「今はそんな気分じゃない」と断る為に後ろを向いたが、言葉を発する前にユウの唇にクロスの唇が当てられた。

「んっ、」

そのまま抱きしめられ、ユウの手に握られていたお玉が床に落ちる。クロスの片手がユウの体から離れ、コンロの火を止めた。
元々喋る為の準備をしていたユウの口はクロスの舌を拒む暇なく受け入れてしまい、さらに容易に舌を絡めとられてしまう。クロスの胸に手を当て、その大きな体を引き離そうとしても、さらに強い力で抱きしめられてしまいどうすることもできない。

「く、ろ…っ、ぁ、」

呼吸が苦しくなってきたと何とか唇を離してもすぐにクロスの唇が追って来て、ユウがキスから解放されたのはユウの体から力が抜け、完全にクロスに体を預けてからだった。

「…料理中です、」
「安心しろ、今はこれ以上する気はない」
「……今は、」

後でこれ以上するのかとクロスを恨めしく見上げると、口の端を挙げて笑うクロスの顔がユウの目に映る。答えは聞かずとも、と言ったところだろう。

「母親らしくし過ぎるのも問題だな」
「え?」
「あいつにお前を気にかけるように言ったのは俺だが、正直なところここまで面倒をみるとは思っていなかった」

今までの母親には一緒に食事をしようなどと言わなかったとクロスが複雑げな表情をし、ユウを見る。

「お前がきちんと母親の役目をするから、あいつもそれなりに心を開いているんだろう」
「……何か、母親らしくするなと言ってるように聞こえるんですが」
「し過ぎるのも問題だと言っているだけだ。程良く、付き合ってやればいい」
「程良くって、今でも朝声をかけて食事を作ってるくらいしか、」

本当に最低限のことしかやっていないのに、さらに接し方を考えろと言われると、朝声をかけるのを止めるくらいしか思い浮かばない。食事は必要だろう。ティキに作らないと言うことはユウの食事もなくなると言うことだ。
クロスがダイニングに戻り、ユウが再び料理をしていると、先程まで話題になっていたティキが帰宅した。昼に会った時には持っていなかったスーツケースを持っており、少し首を傾げたユウだったが、それが主張初日にティキが持っていったスーツケースであることと、昼間ティキと出会った場所は会社の近くだったことを思い出して一人頷いた。きっと今日の午前中に出張から戻って来て会社に直行し、昼はスーツケースを会社に置いて外に出ていたのだろう。

「あれ、何でいんの」

帰宅したティキの第一声は「ただいま」ではなく、クロスを見て眉間に皺を寄せての一言だった。確かに、今の時間はクロスが滅多に帰って来ていない時間で―ユウが料理を作っていたのがいい証拠だ。ユウは大体決まった時間に料理を作り始める―ティキはユウ一人だと思っていたに違いない。

「ここは俺の家だぞ。いたら悪いか」
「悪くねぇけど、出張から帰っていきなりアンタの顔見ることになるとは思ってなかっただけ」
「何だ、ユウに出迎えてほしかったのか?」
「アンタの顔見るよりはな」
「おかえりなさい、ティキさん。あの、夕食は?」
「食う」

着替えてくると言ってティキが部屋から出ていった。
久々に三人で食事ができるとユウがもう一人分の食器を出していると―ティキの帰りが分からなかったので、ユウとクロスの分しか食器を用意していなかった―
ユウがテーブルに料理を並べ終えた頃、丁度ティキが部屋からダイニングへとやって来て、何も言わずに自分の椅子に座る。クロスは最初から座っているので、後はユウが座るだけだ。
ユウが座ると、大人二人が無言で目の前の食事に手を付け始め、ユウはそれを見た後小さな声で「いただきます」と言ってフォークを手に取った。

「お前、昼間ユウと会ったらしいな」
「あ?」
「昼食を一緒に食べたとユウから聞いたが」
「ああ、食ったけど。何だよ?」

サラダの器が空になったところで、クロスが今日の昼のことについてティキに尋ね始めた。
尋ねられたティキは素直にユウと食事をしたことを認めたが、「何故こんな質問を?」と言わんばかりに眉間に皺を寄せている。
「何、お前にしては珍しいと思ってな」
「…日本から来て土地慣れしてねぇ奴一人にしておけるわけねぇだろ」
「ユウが一人でも行動できるようにする訓練だったんだが」

お前の所為で台無しだというクロスの言葉に、ティキの眉が不快だとつり上がった。

「ああ、そうかよ。それはすいませんでしたー」

抑揚のない謝罪がティキの口から出てきて、それが、クロスの言葉がティキの善意を踏みにじったのだと言うことを容易にユウにわからせる。馴染みの店にまで案内したのに、それを「余計なことをしてくれたものだ」と近い言葉を言われたのだ。腹が立つのも仕方がない。

「あ、あの、確かに、一人で行動できるようにって言われていましたけど、でも、やっぱり不安で、ティキさんがいてくれて凄く助かりました。ありがとうございます」

このまま黙っておくこともできたが、黙っておけば、ユウがクロスに「折角の機会をティキに邪魔された」と言ったと思われかねない。
それだけは避けなければとティキをまっすぐ見て礼を言うと、ティキの表情が少し緩んだ気がした。

「それにクロスさん、一人で行く約束は絵画展までで、その後は服を見るなり好きにしろと言っていたじゃないですか。絵画展を見た後にティキさんと会ったんですから、ティキさんが責められる謂れはありません」
「何だ、そいつの肩を持つのか?」
「事実を述べただけです」

結果を見ればティキをフォローした形になるのだろうが、本当にユウは事実を述べただけでどちらの見方をするつもりもない。どちらかの見方につけば、その後もう一方と問題が生じるのは明らかだからだ。

「折角のスープが冷めてしまうので、早く食べて下さい。今日はデザートもありますから」









「…疲れた」

夕食後、片付けを終えたユウは自室のベッドに倒れこむように横になり深く息を吐いた。
料理中に暗に就寝時の情事を臭わせたクロスは会社から呼び出しをくらって出かけてしまったので、今日はユウ一人で眠ることができる。
いつも二人で食べている時はたまには三人で食べたいと思うが、いざ三人で食べるとやはり疲れが酷い。親子だと言うのに、あの二人は噛み合いが悪すぎる。

「そういや、ティエドールさんに会ったこと言うの忘れたな…」

トイレのことがあまりにショック過ぎて、他の報告を忘れていた。今思えば、ティキをフォローする為に絵画展は一人で見たことを言ったが、クロスが帰ってきたばかりの時はティキと食事をして女子トイレに入るはめになったとしか言わなかった気がする。
もし、ユウが絵画展のことを話さずティキと会ったことだけを言ったら、クロスが絵画展へ行く前にティキと会ったと誤解しても仕方がない。

「俺が悪いんじゃねぇか、…クソ、」

まあ、誤解していなかった上でクロスがああいった発言をした可能性は十二分にあるが、少しでも自分に非があることを感じてしまえば気分が悪くなる。

「…何で俺ばっかこんな苦労しねぇといけねぇんだよ」

まだ成人前のユウが、とうに成人を迎えた大人二人を気遣って日々を過ごさなければいけないのはあまりに理不尽に感じられた。

「起きてるか?」
「、はい」
ぶつぶつと二人の―主にユウのお願いを聞いてくれなかったクロスだが―悪口を言っていると、部屋の扉が叩かれてティキが声をかけていた。
ベッドから降りて扉を開けると、ティキが小さな袋を差し出してきた。
「…これは?」

袋を開けると、中から十字架のペンダントトップと赤い何か―トウガラシに見える―が付いたキーホルダーが入っていた。

「出張土産。あんたさ、家の鍵に何も付けないまま持ってるだろ?」
「はい」
「自分の気に入るキーホルダー見つけるまで、それでも付けてりゃいい」
「あ、ありがとうございます」
「ホーン珊瑚のコレは魔除けらしいけど、本当に効果あるのかはわかんねぇ」

一番近くに厄介なのがいるし。ティキがホーン珊瑚のキーホルダー―トウガラシではなかった―を手にとってそんなこと呟く。

「厄介って、…ティキさんのお父さんじゃないですか」

すぐにティキが厄介と言っている対象に気づいて嗜めると、ティキは眉間に皺を寄せてキーホルダーをユウのもつ袋に戻し、ユウの顔を見て口を開いた。

「……前から不思議に思ってたんだけどさ」
「はい?」
「アンタどうしてクロスと一緒になろうと思ったんだ?アンタほどの女なら他に幾らでもいい男捕まえられただろ?あいつとじゃ年だってかなり離れてる。もっと年が近くて、金もあって、顔もいい男、周りにいなかったのか?」
「えっと……」

ティキの質問には突っ込むべき個所が二つほどあるのだが、その二つとも突っ込んではいけないもので、答えに困ってしまう。

「…好みなので」

結局理由を考えることができず、苦し紛れの言い訳がユウの口から出てきた。
ティキはユウの答えに対し暫くぽかんと口を開けていたが、ユウが声をかけるとはっとしたように瞬きし、苦笑いと言えるような表情を浮かべた。

「わかったよ。聞いた俺が悪かった。人の好みに口出しちゃいけねぇよな」
「あの…」
「偶にさ、アンタがクロスの女じゃなかったらって思う時があって……ま、いいや。おやすみ」

ティキがユウの頭を撫で、部屋から出ていく。

「俺が、あの人の女じゃなかったら……何だってんだ」