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「絵画展、ですか?」

夜、帰宅したクロスから渡されたチケットを見、ユウは少し戸惑った声を出した。言葉はある程度話せるが、文字はまだ日常で使う単語も読めない。会話は常に使わなければならない為覚えられるが、文字に関しては殆ど使う必要がないためだ。クロスの言葉から絵画展のチケットなのだということはわかったが、何故このチケットを渡されたのかわからない。

「知人から貰った。買い物以外でも出かけた方がいいだろう」

クロスの家へやって来てから一カ月。確かにユウは買い物以外で家から出たことがなかった。偶にクロスとティキが仕事でいない時間にこの辺りを散歩してみようかと玄関に立つことはあるのだが、そこから一歩を踏み出すことができない。

「そんなに遠い場所じゃないからな、一人で行ってみろ。五分くらい歩けばバス停がある。そこから出るバスで会場まで直接行ける」
「…一人で、」
「俺やティキがいなければ出かけられない生活を続けていたら、引きこもりがちになるだろ」
「…頑張ってみます」

一人で出かけなければならないと思った瞬間、手に少し震えが走ったが、ユウはクロスの言葉に頷いた。いつまでも二人に頼ってばかりではいけないと思ったのだ。
チケットを片付け、作っておいた料理を温める。クロスと二人きりの食事は何だかんだで久しぶりだ。クロスから帰りが早い方と一緒に食べるようユウは言われているのだが、クロスは基本的に帰りが遅く、夕食はティキと二人だけということばかりだった。三人で食事をすることもあるが、クロスと二人きりと言うことは殆どない。
今日もクロスの帰りは遅かったが、ティキが出張でいない為、クロスと二人きりになったという訳だ。

「食事できました」
「ああ」

温めた料理をテーブルに並べ、リビングでソファに座って何やら書類を呼んでいるクロスに声をかける。クロスはすぐに書類を置いてユウの傍まで来てくれた。

「ユウ、以前やった携帯はどうした?」

食事を初めて暫く、お互いに何を話したらいいのか分からず沈黙が続いていたが、クロスがその沈黙を破ってユウに話しかけてきた。

「部屋に置いてあります。使うこと無いので」

漸く会話ができたことにホッとしつつクロスの質問に答える。
ユウがこの家にやってくることが決まってからクロスがプレゼントしてくれた携帯だが、ユウは貰った日にクロスと通話して操作を確認して以来電源を付けたことがなかった。ショッピングモールに行く時も、ティキが一緒にいてくれるからと携帯は部屋に置いたままだ。
元々田舎で育ち、友人と遊びに行くことも滅多になかったユウは携帯電話を持っていなかった。その為、携帯電話だというのに持ち歩く習慣がないのだ。

「絵画展に行く時は忘れずに持って行け。俺と、ティキの携帯番号が入っているからな。何かあったらどっちにでも電話をかけろ。アドレスの見方は覚えているな?」
「はい」
「それと、絵画展の会場で困ったことがあったら、その会場にいるフロワ・ティエドールという男に声をかけてみろ」
「お知り合いですか?」
「まあ、そうなるな。その絵画展の主催者だ。あの男なら日本語も喋れるだろう」
「…はあ、」

クロスの言葉と表情から、そこまで親しい相手と言う訳でもないのだと感じ、首を傾げる。何かあったら頼れというのだから、それなりに信頼はしているのだろうが、それでも親しくはないというのはどういうことだろうか?

「ただし、何かあったら、だ。そうでもない時は絶対に声をかけるな」
「え?あ、はい」

絵画展の主催者だというのなら、クロスが言っていたチケットをくれた知人とはそのフロワ・ティエドールという人だろう。それならば挨拶をしておこうと思っていたのだが……。

「あの、どうして話しかけたら駄目なんですか?」
「逆にそいつが厄介事になるからだ」
「厄介事…」

ますますわけがわからない。
どうせ、これもユウの性別を誤魔化さなければならない理由と同じように教えてくれないのだろう。そう思って深く追求するのをやめる。

「それと、絵画展の建物の近くにある店を見て回るのも良いだろう。服でも買ったらどうだ?」
「…そうですね、気が向いたら」

曖昧な返事をして自身の空になりつつある皿を見る。洋服が欲しいという気持ちが無いわけではないが、男物を買っていいのか、それとも女物を買わなければならないのかわからない。

「お前はもっと物を欲しがれ。家に変化がなさすぎるのも考え物だぞ。変化しすぎるのも、どうかと思うがな」
「じゃあ、何か買ってきます」

生活に必要なものさえあれば他に物などいらない気がするのだが、クロスが何か買えというのだから買わなければならないだろう。

「お前が好き勝手に物を買っても困らん程度の金はある。額は気にせず買ってこい」
「…そう言われても、」

養われている身として値段を気にしてしまうのは仕方のないことだ。そして、この家の大きさや揃えられた家具を見れば安すぎる物もいけないとはわかっているので、品物選びにさらに慎重になってしまう。ユウが高価だと思って買った物を、クロスがそんな安物を買うなと言う可能性は十分にある。

「値段は見ないで気に入ったと思うものを買ってこい。俺たち三人の中で一番長く家にいることになるのはお前なんだ。俺は生活に必要な物を揃えただけにすぎん。後はユウ、お前自身が落ち着く家を作れ」
「俺が落ち着く家、」









「ここか、」

翌日、クロスを見送ったユウはクロスから貰ったチケットを持って絵画展にやってきた。
家から出るまでにはかなりの勇気が必要だったが、一度出てみればどうにでもなれという気分になって案外あっさりとバスに乗り込み、絵画展を行っている会場までやってくることができた。
会場は大きな美術館で、その中の一角で絵画展を行っているようだ。
入口で係員にチケットを渡し、代わりに貰ったパンフレットに眉を顰めつつ―パンフレットに書かれた文字は英語だった。辞書がなければ読めない―目的の絵画展会場へ足を進めていく。
絵画展のチケットは美術館の入場券も兼ねているようだったが、芸術にそこまで興味のないユウにはどうでもよいことだった。絵画展だって、クロスからチケットを貰ったから行くだけで、そうでなければ行こうとは思わない。とりあえず絵画展で展示されている絵を見て、クロスに感想を聞かれても困らないようにしようというのがユウの考えだ。
美術館の通路をまっすぐ進むと、大きな部屋に辿りついた。入口にはチケットに書かれていた絵と同じ絵の看板があり、ここが絵画展の場所なのだとわかる。
中に入って部屋の中を見渡してみると、そこにはなかなか大勢の人が展示された絵を眺めていた。

「見たことない絵ばかりだな…」

端から絵を見ていくが美術の教科書程度にしか絵の知識のないユウには一度も見た覚えのない絵ばかりだった。描かれている人物たちは中世風の衣装を着ているのでその年代では知名度が低く、今になって認められた人物なのだろう。

「どうですか、この絵は」

部屋の一番奥にある壁一面を覆う絵を見ていると、後ろから話しかけられた。ぱっと振り向くと、優しげな風貌の男がユウを見ていた。大きな眼鏡をかけ、その眼鏡も隠れてしまいそうなほどに茶色の髪の毛が顔の上半分を隠しているが、穏やかな雰囲気がそれをカバーして安心感を抱かせる。

「どうって……その、」
ユウがどう答えたものかと考えあぐねていると、男性はユウの隣に立って目の前にある絵を見上げた。

「これは、三年かけて描いた絵でね」
「三年も……描いた?」
「うん?」
「貴方が、描いたんですか?」
「そうですよ」
「………」
「何か?」
「描かれている人が、その…洋服が、」

“中世の”という単語が分からず言い方を考えていると、男がそんなユウの考えを汲み取ったのか先に声を出してくれた。

「着ている洋服が古いって?」
「あ、はい、」
「今回絵画展に出したものはモデルにそういった洋服を着てもらったんだ。普段は普通の洋服をきているものも描いていますよ」
「…あの、」
「はい?」
「もしかして、フロワ・ティエドールさんですか?」

男が頷くのを見て、ユウはぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
クロスには何か困ったことがあったら頼るようにと言われた相手が、目の前にいる。ユウからではなく、むしろ向こうから話しかけてきた。

「えっと……失礼します」
「いやいや、名前を聞いていきなりそれは、」

失礼ではないのかと言われ、ユウはその通りなのだが、と眉間に皺を寄せる。
クロスの言った厄介事と言うのが気になっていた。

「…あまり、貴方に近づくなと言われていて、」
「誰から?」
「……クロス・マリアンと言う男性から、」
「マリアン?あー……」

何かを理解したのか、ティエドールが溜息を吐いてユウを見る。

「わかった。君、彼の新しい奥さんだろう?ちょっと前に彼から聞いたよ」

何だかティエドールの口調が砕けたものに変化した気がしたが、それよりもクロスが自分のことを“妻”だと紹介していることを知り、複雑な気分になった。

「日本人だって?」
「はい」
「極東から大変だろう。生活にはもう慣れたかい?」
「少しは…クロスさんも、息子さんもよくしてくれるので」
「へぇ、意外だねぇ……」
「え?」
「いや、こっちの話だ。気にしなくていいよ」
「そうですか、」
「クロスにあまり関わるなと言われているなら、仕方がないね。この後食事でも、と誘いたいところだけど、今度また、機会があったらにしよう」

ティエドールが礼をしてユウに背中を向け、人ごみの中へ消える。

「…そんな悪い人じゃないのに」

少し話しただけだが、クロスが言うような厄介事を持ち込む人とは思えない。一体何故クロスは彼に話しかけるなと言ったのか……。
その後、ユウは三十分ほど絵画展の会場で絵を見ていたが、腹が空腹を訴え始めたので美術館を後にした。