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「…っ、」

久々に腰に感じる鈍痛に、ユウは思い切り顔を顰めた。
クロスは朝早くに仕事へ出かけてしまい―今日も遅くなるのだそうだ―、今、ユウはティキと自分の為に朝食作りをしていた。本当ならば、クロスが出かける前に彼の為に何か作らなければならないのだろうが、あの時のユウはまだ起き上がれるような状態じゃなかった。
味噌汁の火を止めて手を洗い、時計を見て溜息を吐く。そろそろティキを起こさなければいけない時間だ。
昨日、クロスはティキは夫婦のそう言った現場を見てもどうこういう人間ではないと言っていたが、本当に何も言わずにいてくれるのか不安だ。否、何も言わなくとも、目で何か訴えてくるかもしれない。それも嫌だ。

重い足取りでティキの部屋の前まで行くと、深呼吸をして扉を叩いた。

「ティキさん、朝食できました」

暫く反応を待つが、部屋の中からは何の音もしない。
「ティキさん」

もう一度、今度は強めに扉を叩いてティキを呼ぶと、部屋の中で少しだけ物音がした。どうやら起きてくれたようだ。
ティキが扉を開ける前にと思い体を急いで動かしてキッチンに戻り、先程火を止めた味噌汁を確認する。そこまで時間がたっていない為、温め直さずとも食卓に出せそうだ。
皿を取り出してご飯に味噌汁、そして和え物に焼き魚を盛ったところでティキがキッチンに顔を出した。

「おはようございます」
「おはよ。腰、辛そうだな」
「っ、」

ティキの方へ体を向け、なるべく平然を装ってティキに挨拶をしたユウだったが、挨拶の後にティキの口から出てきた言葉に一瞬で冷静さを失った。

「い、いえ、あの、」
「これ運べばいい?」
「…はい」

食事の乗ったトレイを指さされ、小さく頷く。すると、ティキはそのトレイをひょいと持ち上げてテーブルへと運んでくれた。

「…ありがとうございます」

追ってダイニングへ行くと、ティキはすでに皿を並べ終えた後だった。普段は、ティキが下に下りてくる前にユウがやっているもので、ティキがやったのは初めてだ。
礼を述べると、ティキは「いつもやってもらってるし」と肩を竦めた後、椅子に座ってユウを見た。

「あのさ、体調が悪い日は無理しなくていいから。休んどけよ」
「でも、」
「でも、じゃなくて」
「………」
「アンタの知ってる母親ってのは、毎日三食食事作って、家のことも完璧にこなす母親なのかもしれねぇけど、俺の知ってる母親ってのは全部ホームヘルパーにさせるような奴。それなりに、世間一般の母親ってのはわかるけどな。アンタは十分母親の役目果たしてるよ。少しくらい休んだって、誰も文句言わない」

ティキが食事を始め、ユウも椅子に座って自分の作った料理を食べる。
ユウは男だが、クロスの妻であり、ティキの母親だ。ユウの家族や親戚の暮らしを握っているクロスには妻として、そしてクロスの息子であるティキには母親として、ユウが与えることができる最大限のものを与えていかなければと思っていた。

その後、ティキは一言も喋らなかったが、ユウが食事を終えるまでダイニングにおり、空になったユウの皿までキッチンに運んでくれた。ティキは戻ってこず、さらに水の流れる音と食器がカチャとなる音がするので、そのまま食器洗いまでしてくれているらしい。

「……ひょっとして、気遣ってくれてるのか?」

昨日の夜ティキに見られてからずっと、「明日からかわれたら嫌だ」と思っていた為、朝ティキに腰のことを持ち出したのはユウをからかう為だと思い込んでいた。もしかすると、あれはからかいではなく、単純にユウの体調を心配してくれてのことだったのかもしれない。
キッチンからダイニングに戻ってきたティキが、中には入らず入口でユウに話しかける。

「皿洗っといたから。拭いてねぇけど、置いときゃ乾くだろ」
「…ありがとうございます」
「もう会社行く。家事とか何もしなくて良いから、ユウは寝とけ」

いいな?とユウに無理矢理頷かせてからティキが準備の為にダイニングから出て行く。
そんな時間かとユウが時計を見ると、ティキが普段会社に行く時よりも早い時間だった。きっとティキがいたらユウが落ち着けないと考えたからだろう。

「…優しい人なんだな、」

年上の息子であることと、男だということを知られてはならないことから、どう接したらいいのか接し方に迷う相手ではあるが、これから長く一緒に暮らしていく相手として、ティキはとても良い同居人だとユウは思った。









「…やべ、寝過ぎた」

外はすでに日が落ち始めており、ユウは今日一日を寝て過ごしてしまったことにがっくりと肩を落とした。
ティキに寝ていろと言われたからというわけではないが、腰の痛みもあり、ユウはティキが出かけた後すぐに自分のベッドに横になった。昨日の夜殆ど眠ることができなかったこともあり、布団に入った途端すぐに眠気に襲われてしまい、昼食時まで寝てしまおうと目を閉じたのだった。
結局、昼食時に起きることができず、今はもう夕食を作らなければいけない時間だ。

「流石に、まだ帰って来てないよな、」

クロスは遅くなると言っていたが、ティキは特に何も言っていなかった。ティキが何の仕事をしているのかはわからないが、なかなか早い時間に帰ってくるので―ティキが言うにはこの辺りの会社では当たり前の時間で、早い時間というわけではないらしいのだが―ユウはいつも、日が暮れ始めた頃には夕食の準備を始めていた。
部屋の扉を開けて室外の様子を窺うが、特に物音はしない。
まだ帰って来ていないようだとほっとして部屋を出てキッチンへ行くと、朝ティキが洗ってくれた食器はすっかり乾いていた。
乾いた食器を棚にしまい、夕食の献立を考える。昼間、家事を一切せずに眠っていたので、腰の痛みは大分楽になった。その代わり、掃除も洗濯もできていないのだが。掃除は毎日きちんとやっているし、洗濯はそれほどの量は溜まっていない。明日きちんとやれば、クロスもティキも文句は言わないだろう。

「ティキさん、何が好きなんだ?」

今朝、気にしてもらった礼にティキの好きなものを作ろうと言うことで落ち着き、ふと、ティキの好きなものは何なのかと考える。
ティキはユウのどの料理を食べても美味いと言ってくれるが、その分、どの系統の料理が好きなのかいまいちわからない。一週間、似たような系統の料理を出さないよう四苦八苦して料理を作ってきたのだが、ティキはどの料理にも同じような反応しかしなかったのだ。慣れ親しんだ洋風料理も、滅多に食べる機会などないだろう和風料理も、全て同じ「美味いな」という反応をとる。

「…帰って来てから作っても間に合うか?」

冷蔵庫の中を見て大抵の料理は作れることを確認し、パタンとドアを閉じる。まな板と包丁を料理スペースに置くと、ユウはそれ以上の作業はせずにリビングへ向かった。
リビングのソファに座り、電源の入っていないテレビを見る。リモコンはユウの手の届くところに置かれているが、ユウはリモコンに目を向けることなく真っ黒な画面を見た。
画面に映るユウは胸の詰め物の所為でうっすらとだが胸があり、まるで女に見える。

「真っ暗な画面見て楽しいか?」
「っ!お、おかえりなさい」
「もう腰は良いのか?」
「お陰さまで」

画面を見て溜息を吐いたところで、いつの間にか帰ってきたティキに声をかけられた。びくっとして振り返り、慌てて声を出す。少し裏返った声が出た。

「じゃあ、良かった」
「あの、今日の夕食、何がいいですか?」

自室へ向かおうとしたティキを引きとめて、予定していた通りティキの好きなものを作るために、ティキに好物を聞く。

「何でもいいけど」

だが、ティキは明確な答えをくれず、ユウに任せると言う。

「…じゃあ、好きな食べ物って何ですか?」
「んー、食えるもんなら何でも」

聞き方が悪かったのかと、ティキの好きなものをしっかりと聞こうと質問し直したが、それでも、ティキはユウの望む答えをくれなかった。

「飯食うのは好きだけど、食う飯にこだわりはないんだ、俺。あ、マナー煩く言われるとこで食う飯は嫌いかな」
「嫌いな食べ物は?」
「炭になった飯は嫌いだな」

まともに答える気はあるのかと疑うくらい、適当な答えだ。炭のように焦げてしまった料理など、ユウは生まれて今まで見たことがない。
「…じゃあ、適当に作りますけど」
「それでいいよ」

それだけでティキは部屋へ行ってしまい、ユウは眉間に皺を寄せてキッチンへ向かった。こんなことならティキを待っている必要はなかった。

「好きな食べ物がないって、」

一つくらいあるだろう。それとも、どうせユウには作れないだろうとわざと答えなかったのだろうか?

「…よし、」

ユウの好きに作っていいと言うのなら、腕によりをかけて洋食を作ってやろう。そう思って腕まくりをする。普段はユウの好みで和食が多いので、ティキが食べてきたであろう洋食を作ってやるのだ。
まずはクロスがどこからか買ってきた明らかに高価な生ハムを使ってサラダを作り、それから鶏肉のハーブ焼き、チーズのリゾット、コンソメベースのスープを作る。デザートも作ろうとしたが、デザートを作る為の材料はなかった。買い物に行く際―とは言っても、ここに来てからはまだ二度しか買い物へ行っていないのだが―、色々な料理を作れるようになろうと、さまざまな食材を買ってきていたのだが、デザート類に関してはユウが甘いものを好まないため買っていなかったのだ。

「…メニュー的にはどうなんだ?これ、」

粗方作り、盛りつけるための皿を選ぼうと棚を開けたところで、ユウは改めて自分の作った料理を見て溜息を吐いた。味には自信があるが、統一感を考えずに作ったので、料理の組合せとして上手くいっているのかわからない。

「…まあ良いか。コースメニューってわけじゃねぇし」

料理分の皿を取り出して奇麗に盛り付け、トレイに乗せてダイニングへ運ぶ。何度か往復して料理を運んでいると、ティキが部屋から出てきた。

「今日は何か皿の数が多いな」
「朝皿を洗ってもらったので。夜はちゃんと自分で片付けますから」
「ああ、礼ってこと?」
「はい」

礼だと知り、ティキが繁々と料理を眺める。

「何か悪いな、皿洗っただけなのに」
「いえ、朝の忙しい時にすみませんでした」
「少しくらい遅刻したって良いんだけどな」

ティキが椅子に座り、ユウを待つことなくさっさと料理に手をつける。どうせならユウが座るのを待ってくれても……と思ったが、料理を一口食べたティキの口元が笑み動いたことに気づき、不満を飲みこんだ。