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「朝食、できました」

そう言うユウを見るティキの目は、ユウにとってはまるで奇妙なものを見るような目に感じられただろう。

「…朝は、食べない人ですか?」

いつまでも無言でユウを見ていた所為か、ユウが眉間に皺を寄せてティキに尋ねてきた。ティキの目の理由を朝は食事を取らないのにわざわざ起こしに来たからと思ったに違いない。

「いや、食うけど……俺のも用意したの?」
「はい」

当然だとでも言わんばかりの返事を聞き、ティキは溜息を吐いて己の下半身を覆っていた布団を捲った。
他人から朝食ができたという言葉を聞いたのは十数年ぶりだ。十歳の頃にはすでに朝は誰もいないキッチンでベーコンを焼き、スクランブルエッグを作っていた覚えがある。それ以前は確かに母親が作ってくれていたが、どの母親もティキに真っ黒な朝食を出した。十歳のティキですらできたことを、クロスが連れてきた母親達はできなかったのだ。

「食べる前に顔を洗ってきてください。頭がすっきりしますから」
「ああ」

部屋から出たところでユウからタオルを渡される。

母親から指示を与えられることに違和感を覚えつつも洗面台に立ち、顔を洗って目を細めつつ髭を剃る。最近、めっきり視力が悪くなった。以前は眼鏡をせずとも難なく髭剃りができていたが、最近は鏡に顔を近づけて目を細めなければよく見えない。昨日も、眼鏡をしていなければユウがどんな顔をしているか全くわからなかっただろう。
人がどこに立っているかはわかるからと運転や仕事以外では視力を調整することはないが、そろそろ軽い眼鏡を用意したほうがいいのかもしれない。運転や仕事用の眼鏡は所謂瓶底眼鏡で、常にかけているには重過ぎるのだ。
使ったタオルを洗濯機に投げ入れ、ダイニングへ向かう。昨日のように美味そうな匂いが漂ってくるが、ティキがよく知る焼けたパンやベーコンの匂いではない。
ダイニングのテーブルに並べられていたのは、昨日大皿に盛られていたものの残りと、茶色い色のスープ、焼き魚、そしてライスだった。

「簡単なものですけど、」

すでにクロスは出かけたのかクロスの椅子の前には料理は置かれておらず、ティキとユウの椅子の前にだけ料理が置かれている。

「俺は簡単だろうが作れりゃいいと思うけどな」

椅子に座り、簡単なものと言われた朝食を改めて見る。
こんなにしっかりとした朝食は初めてだ。これが簡単なものだというのなら、このあたりの家庭では当たり前のパンとチーズとコーヒーだけの朝食は何なのだろうか?ティキが朝食に食べるベーコンやスクランブルエッグでさえ、朝の食卓に並ぶことは滅多にない。
昨日の料理は美味かったので、茶色いスープの味にも期待を持てる。スプーンで掬って飲んでみると、やはり美味かった。あまり馴染みのない味ではあるが、抵抗は全くない。

「いつもこんな朝飯食ってんの?」
「それが当たり前だと思っていたんですが、」
「ここら辺じゃ、パンとコーヒーがあれば十分。朝食でこんなに料理並んでるのはじめて見た」

ティキの言葉を受けて、ユウがしょんぼりと肩を落とす。

「…明日からはちゃんとパンとコーヒーにします。すみません」
「へ?……あ!いや、別にそう言うわけじゃなくて、」

一瞬ユウが肩を落とした理由も、謝ってきた理由もわからず固まってしまったティキだったが、ユウがティキの言ったことを「朝は軽く済ませるものなのに、こんなに用意して」とマイナスに受け取ってしまったことに気づいて慌てて弁明した。

「感心してるんだよ!だって、朝から料理作るのって大変だろ?」
「慣れているので」
「慣れてるって言っても、毎日作れるのはスゲェって」
「………」

ティキが言えば言うほど、ユウのテンションが下がっていく。慌てて弁明する行動が逆効果となっているようだ。

「…まあ、よければまた作ってくれよ。美味いし」

弁明するだけ無駄ならどうでもいい。最後にぼそっと言葉をつけたし中断していた食事を再開する。この食事を毎朝食べられるというのならありがたいが、そうでないとしても生活に支障が出るわけではない。

「迷惑じゃなければ、」
「迷惑じゃねぇって」

他人に気遣いすぎるのか、それとも単にまだティキに慣れていないだけなのか。ティキが迷惑じゃないというと、ユウはほっとしたように肩の力を抜いてスープを飲んだ。

「昨日、クロスが日本の料理って言ってたけど、出身は日本?」
「はい」
「日本ねぇ…東京しか行ったことねぇや。テレビで偶に特集やってるのは見るけど」

それも、仕事で一泊二日という短い時間しか滞在しなかったので、観光らしいことは一切していない。

「電車乗ったけど、すごいよな。あんな数分間隔で時間通りに来て。ここじゃ時間通りに来ないなんて当たり前なのに」
「…よくわからないです。何もない田舎で育ったので……東京はここに来るときに飛行機に乗るために通っただけで、」
「ふーん」

テレビで見た東京の女性達は、黒い髪を茶や金に染め、ばっちりとお洒落をしていた。ユウがメイクをせず、服装も至ってシンプルなものを着るのは田舎育ちだからなのだなと納得する。

「ま、自分の育ったところ以外わかんねぇのは当然だよな。俺も、この辺りと会社周辺以外はよくわかんねぇし。そういや、今日買い物どこ行くんだ?」
「食材を買いにいきたいです。あと、料理道具とか」
「家具はいいのか?」

ティキはよく知らないが、クロスの妻達は家にやってきて直ぐに自分好みの家具を買い揃えていたはずだ。現に、今家にある家具はとても少ない。

「溢れているものもないのでいらないと思ったんですが」
「でも、服買うだろ?」

どれだけ洋服を持ってきたのかはわからないが、暮らしていれば新しいものを買うだろう。そう思って尋ねると、ユウは複雑そうな顔をして「そんなに買いません」と答えた。
「ドレッサーも無いだろ」
「使わないのでいりません」
「使わない?」
「化粧しないので」

確かに、化粧をしなければドレッサーは要らないのかもしれない。
浪費癖を持った恋人を多数この家に住まわせてきたクロスだが、今回の恋人は堅実な生活を好むらしい。これは逃がしたくないと思うわけだ。
何だかんだとクロスの文句を言っていてもティキはクロスの仕事を評価しているので、妻が次から次へとものを買っても金に困ることは無いとわかっているが、そんなクロスでも碌な食事を作れず家事もせず贅沢三昧の恋人は流石に限界だったのだろう。

「じゃあ、飯食って暫くしたら行くか。ショッピングモールでいいだろ?」
「お任せします」

最後に残ったライスを口の中に入れて席を立つ。皿を持とうとしたらユウにやっておくと言われたので、そこは言葉に甘えることにした。

「十時くらいに行くから、準備しといて」
「はい」

準備と言っても、何もすることはなさそうだが。
ユウは昨日の夜と似たような格好をしていたので、きっとあのまま出かけるつもりだろう。同棲相手の子供と会う時以上に出かけるときに粧し込むとは考えにくい。
化粧をしたらどうだと言おうにも、ユウの肌は白く美しいし、目もアイライナーなど必要の無いくらいくっきりとしている。

「田舎出身ねぇ……美人ってのはどこにいるかわかんねぇもんだな」

都会の方が人口が多い分美人も多いと思っていたが、あれだけの美人が地方にいるというのなら考えを改めなければならない。
今までクロスが連れてきた母親は皆ティキの好みを外れていたので、クロスとは好みが違うのだと思っていたが、ユウに悔しいがクロスを羨ましいと思う。









「食材なんてどれも一緒だろ?」
「いえ、痛んでいるのもあるので」

まるで洋服の買い物に付き合っているようだとティキは思った。
食材と調理器具だけだというのでさっさと終わるかと思いきや、一時間経ってもユウの食材選びは終わらない。欲しい食材の前で立ち止まり、眉間に皺を寄せてじっくり見定めカゴに入れる。

「お金を出してもらうんです。同じ値段で買うなら少しでもいいものを買わないと」
「クロスはそんなのこだわらねぇよ。自分好みの酒がありゃいいって」
「酒はクロスさんが自分で用意できます。その分、料理に力を入れるんです」
「はぁ……」

ユウは真剣にパプリカを見ているが、ティキの目にはどれも同じに見える。
一度暇になったティキは酒を見てくるといってショッピングモール内のリキュールの置いてある店に入ったのだが、そこで酒を購入して戻ってきても、ユウは殆ど変わらない場所に立ち、眉間に皺を寄せていた。ティキが離れる前にユウの手にあったレタスはジャガイモに変わっていたが、カゴの中身はレタスしか増えていなかった。ティキが酒を買ってきた約十分間の間に、それだけしか選んでいなかったということだ。

「そんなん続けてたらいつか倒れるんじゃねぇか?精神疲労とかで」
「いつもやっているので平気です。…次、精肉の場所に行きたいです」

このショッピングモールにはさまざまな食材をすべて売っているところは無く、食材のゾーンがあり、そこにそれぞれの専門店が入っている形になっている。野菜を売っている場所は野菜だけ。肉は野菜の会計を済ませて別の場所へ行かなければならない。
野菜だけで一時間。この調子ではすべての買い物が終わる頃には何時になってしまうのか、考えるのも恐ろしい。

「あ」
「どうした?」

レジに並んで会計を待っていると、ユウが声を出し、カゴを見て溜息を吐いた。

「先に調理器具を見ればよかったと思って……野菜が、」
「いいって。少しくらい放置したって直ぐには腐らねぇよ」
「折角いいものを選んだのに、」
「その分美味く作ればいいだろ。ほら、もう会計だ」

ユウの押しているカートをレジの側につけてレジを通してもらう。ユウに会計までそこを動くなと言い、ティキはローラーの上を流れてレジの端にあるサッカー台に辿り着いた野菜を片っ端から袋に入れていった。ユウが何か言いたげな顔をしているが、気にせず詰め込む。ユウに袋詰めまで任せていたら、それにも時間がかかりそうだ。

「次は肉だな。行くぞ」
「やっぱり、調理器具を先に、」
「ここは食い物売ってるゾーンだから食い物が先」
「生ものなのに、」
「調理器具選びに時間をかけなければいいだろ」

これはユウの様子を大人しく見ていては昼食時を逃す。あまり食べるものにこだわりの無いティキだが、食べることには少しはこだわりがある。昼食はやはり昼食時に食べたい。
その後、ティキは率先してユウの買い物を手伝い、精肉店と鮮魚店、調理器具の買い物を三十分で終わらせた。
買い物後、ユウが昼食は家で作るというので、ショッピングモールで何も食べることなく車を走らせていると、隣に座っているユウが申し訳なさそうな顔をティキに向けてきた。

「あの、買い物付き合ってもらって、すみません」
「いいけどさ、ほんと食材選びなんか適当でいいんだぜ?時間かけすぎ」
「今まで一人で買い物をしていたので、ついそれと同じ気分で選んでしまって、」
「食材選びまで真剣にやっていいもん食わせようって思ってくれんのは嬉しいけど、食材がどんなによくても作る奴が下手なら不味くなるし、その逆もある。ユウは後者だろ。何使っても美味くできる」
「まだ二回しか食事作ってないんですが」
「二回とも美味けりゃそれなりにわかるよ」
「…わかりました。次は、できるだけ早く選ぶようにします」

これだけ言っても適当にカゴに入れていく気はないのかと溜息を吐く。大人しそうではあるが、自分がこだわりを持っているところに関しては我が強いらしい。

「…まあ、待たされた分美味い飯作ってくれりゃあ何でもいいや」

自分勝手な理由なら腹も立つが、クロスやティキに良いものを食べてもらいたいと思っている上での時間をかけた食材選びなので、怒る気にはなれない。

「はい」

ティキが折れてくれたとわかったらしいユウが嬉しそうに笑う。ちらりと横目で見たその笑い顔がとても可愛らしくて、ティキはほんの少しだけ自身の頬が熱くなるのを感じた。