※※※


「…きた」

母親がいなくなってから五ヶ月。ついに、ティキが待ち望んでいた日がやってきた。
会社から帰ってきたティキが玄関で目にしたのは、ティキが見るのも嫌なクロスの靴ともう一つ、とてもシンプルな黒い靴だった。
見知らぬ靴がクロスの靴と共にあるということは、クロスの客ということで、つまりは、ティキの新しい母親ということだ。クロスは、家に客を招くことを嫌っている。
これでやっとクロスの酒飲みにつき合わされなくて済むと思った途端、帰宅中悲鳴を上げていた胃が静かになった。
自室へ行って鞄を置き室内着に着替え、デスクから店屋物のチラシを取り出す。ただいまも何も言っていないが、それはいつものことだ。新しい母親がいたとしても、ティキのほうから顔を見せに行くということはしない。そのうちあちらの方から挨拶に来るので、ティキがわざわざ顔を見せに行く必要はないのだ。
母親ができたということは、ティキはまた以前のように食事は自分のタイミングでとっていいのだろう。クロスの食事につき合わされるのはもう御免だ。
チラシを見つつ、クロスに「二人の邪魔をしたくないから」とでも言って再びキッチンを増やしてもらうかと考えていると、ノック音と共にクロスの声がした。

「飯だ」
「………わかった」

ほんの少しの間だけ無言の抵抗をしてみたが、母親が来て初めての夕食は家族で取るという決まりを思い出し、渋々ながら部屋から出る。今日が過ぎれば、ティキの暮らしは今までのように楽なものになるのだから。
クロスが久々に連れてきた母親の顔をよく見てやろうと眼鏡をかけて部屋から出ると、クロスが腕組みをして待っていた。出てきたティキの姿を見るなり眉間に皺を寄せたが、頭の中で何かを妥協したのか肩を竦めてダイニングへ歩いていってしまった。
クロスの後を追ってダイニングへ向かっていたティキだったが、ダイニングに近づくにつれていい匂いが漂ってくるのを感じて足を止めた。いつの間に店屋物を頼んだのだろう?帰ってからはインターフォンの音を聞いていないので、ティキが帰る前に頼んでいたのかもしれないが、温めるだけでこんなにも良い匂いがするものなのだろうか。
まあ、突っ立っていても苦痛の時間は終わらない。意を決してダイニングに入ると、ティキは目を見開いて固まってしまった。

「何突っ立ってるんだ。さっさと来い」

いつの間にか―おそらく今日だろうが―買い足されている三脚目のダイニングテーブル用の椅子の前に立っていたのは、今までの母親達とは比べ物にならない美しさを持った女性だった。
艶やかな黒髪はティキの癖の付いた黒髪とは違って真っ直ぐに女性の背を流れている。黒とは対照的な白肌は頬や指先だけほんのりと桜に染まり、どこか儚さを感じさせた。青の瞳を見れば吸い込まれるかのような錯覚を起こし、かといって視線を動かして紅色の唇を見れば息が詰まりそうになる。隣にいるクロスと比較すると、おそらく百七十センチ後半と身長は高めだが、華奢故にそれほど大きく感じられない。
ぎこちなく足を動かしてティキが己の椅子の前に立つと、クロスが隣に立つ女性の肩に手を置き、いつものようにティキに新しい母親だと紹介してきた。

「神田ユウだ」
「よろしくお願いします」
クロスの紹介に合わせてユウと紹介された女性が頭を下げる。声も、クロスが今まで母親だと紹介してきた女性達と比べて低いが、落ち着きを感じさせる声だ。
何もかもが今までの母親達とは違い、ティキは動揺し、言葉が出てこなかった。

「ティキ、挨拶はどうした」
「…よ、よろしく」

かすれ気味の声で何とか挨拶をし、両親が座ったのに併せて椅子に座る。テーブルに並べられた料理はティキが見たことのない大皿に盛られており、その料理自体も、ティキが目にするのは初めてなものばかりだった。
兎に角、さっさと食事を終わらせて部屋に戻ろうと平皿に盛られたライスを食べ、フォークを伸ばして大皿の料理を摘む。ティキはその料理の名称を知らないが、ジャガイモに人参、玉葱、何かの肉にティキが初めて見る太目の糸のようなものが混ざったものだ。

「これ、どこの店の?」

一口食べたその料理はティキ好みの味付けで、糸のようなものの食感は気になったが、味の染み込んだジャガイモは絶品だった。今まで食べてきた店屋物の中では一番美味い。
これからの参考までに店の名前を聞いておこうと再び大皿に手を伸ばしつつ尋ねると、ユウがキョトンとして首を傾げた。
「この近くにこんなの売ってるところあるか?」

ティキが知っている限りでは、こんな料理を売っているスーパーはなかったはずだ。サラダやおかずを売る店でも見たことがない。
ユウから明確な答えを聞くことができなかったのでクロスに尋ねると、クロスは呆れたような目でティキを見た後口を開いた。

「お前にはこれが店で買ったものに見えるのか」
「店屋物じゃねぇならどっかで買ったんだろ」
「馬鹿か。この料理は日本の料理でこいつの手作りだ」
「…手作り?」

ぽかんとしてテーブルに並べられた食事を見る。確かに、こんな料理の載ったチラシも、売られているところも見たことはないが、こんな味付けがちゃんと為された手作り料理なんて食べたことがない。むしろ、クロスが料理のできる女性と付き合うはずがない。同じ家に住んでいてそうでないようなものだったが、ティキは今までの母親達が家政婦や料理人を雇って自分では何もしていなかったことを知っている。まともな女に縁がないクロスが、炊事をする女性で、さらにクロスに好意を持つ女性を見つけるなんて、ありえないのだ。

「どうだ、気に入ったか」
「……気に入った、っていうか、信じられねぇ…」
「口に、あいませんでしたか?」
「いや、そうじゃねぇけど……」

ユウが不安げに聞いてくるので、そんなつもりはないのだと言葉を濁しつつも美味いと言い、クロスを盗み見る。今までの母親が家庭的なものを全くできなかったから信じられないと、正直に理由を話していいものかわからない。クロスにとっては大したことはないのかもしれないが、自分の惚れた相手が過去に何十人もの女性と関係を持っていたと知ったら悲しむだろう。特に、今回の母親はかなり若い。アジアの―日本料理を作ったというのならばおそらくは日本の―出身ということは、単に若く見えているだけという可能性もあるが、それでもクロスよりはティキに近い年齢のはずだ。恋人と同棲した数などあっても片手で数えられる程度だろう。ましてや、子供のいる相手と同棲したことなどないはずだ。

「ティキ、お前明日休みとってユウの買い物に付き合ってやれ」
「は?何で俺が、」

今までは初日に食事をした後は母親とは関わることなく自由に過ごしてよかった。どうしてわざわざ会社を休んでまで新しい母親に付き合わなければならないのかと不満たっぷりに言葉を発すると、クロスは当然だとでも言いたげな目でティキを見た。

「お前の母親になるんだぞ」
「…だから、今までは、」
「ユウは日本から来たばかりでこのあたりのことは何もわからん。俺は仕事柄帰らん日もあるからな。ユウが慣れるまではサポートしてやれ。俺達は家族だろう?ん?」

今までに聞いたことのないクロスの優しい声に、ティキの背筋に悪寒が走る。

「買い物に連れて行ってくれるそうだ。良かったな、ユウ」
「よろしくお願いします」

ティキが返事をする前にクロスが勝手にティキの明日の予定を決めつけ、それを受けてユウが頭を下げる。

「ユウ、お前はこいつの親なんだ。そんな改まった言葉遣いをしなくていい」
「…少しずつ直すようにします」

クロスとユウの睦まじげな様子を見て、ティキはここ数ヶ月のクロスの自分に対する態度の意味を理解した。
二十六年間ティキを放っておいたクロスは、ユウの面倒を見させる為に自分とティキの距離を縮めようとしたのだ。殆ど関わりのない相手の妻の面倒を見ろというのは厄介事でしかないが、クロスを父親と認識すれば、その妻、つまりはティキの母親の面倒を見るのは当然のことになる。
三十七番目の母親が出て行った直後から家の内装工事や強制的な酒付き合いは始まった。あの頃にはすでに、クロスはユウをこの家に迎えようとしていたのだ。
確かに、仕事の忙しいクロスは家に帰ってこない日が多々あるので、妻となる女性は寂しい思いをする。だが、今までの妻達にはこんな配慮をしてこなかった。
余程ユウのことを気にかけているのだと感心するが、少し複雑な気分だ。

「明日から一週間イギリスに行って来る。困ったことがあったら何でもティキに言うんだぞ」
「はい、」

こんな美人に頼られるというのは悪い気はしないが、母親なのだ。
クロスがテーブルを離れてダイニングから出て行き、ティキとユウ二人きりになる。

「片付け、やっとくけど」

ユウの皿はすでに空になっていたが、ティキの皿にはクロスの行動が信じられず考え込んでしまった時間もあったのでまだ料理が残っていた。
もしや食べ終わるのを待ってくれているのかとユウに声をかけるが、ユウは自分がやるといってその場から動かない。

「他にやることもありませんから」
「ふーん」

まあ、それならばさっさと食べ終えて片付けやすいようにしてやろうと、ティキは、その後は一言も会話することなく食事をし、自室へ戻った。
自室へ戻って暫くすると、クロスがティキの部屋を訪れた。

「何だよ」
「あまりユウを不安にさせるような真似はするなよ」
「…何を今更。今までの母親にはそんな気遣い見せなかったアンタが、今回はやけに優しくしてるんだな。どういう風の吹き回しだ?」

まさか彼女と一生を添い遂げるわけではあるまい。どうせまた数ヵ月後にはユウは消えて新しい母親がやってくるのだろうとせせら笑うと、クロスは無言でポケットからタバコを取り出して火をつけ、ティキの部屋でタバコを吸いだした。

「人の部屋で吸うな。臭いが付く」

ティキもタバコは嗜むが、自らの部屋にタバコの臭いが染み付くのは好きでない為、部屋では絶対に吸わない。吸うときはベランダに出て外の景色を見ながら吸っている。

「だから、気にかけてるんだ」
「は?」

少しでも煙を逃がそうとティキが窓を開けていると、後ろから声がした。振り返ると、クロスが真っ直ぐにティキを見ていた。

「俺は、それで構わんと思っている。ユウ次第だ」
「…信じらんねぇ」
「少しでも早くユウがこの家になれることができるように、協力してやれ」
「何を協力しろって?俺は家族らしいことなんて何も知らねぇし、ユウを母親と呼ぶつもりもない」
「話し相手になってやるだけでいい」

その話し相手になってやることが、どれだけ煩わしいことだと思っているのか。
文句を言おうと口を開いたティキだったが、その前にクロスがドアを開け、部屋から出て行ってしまった。