「あ、おかえりなさい」
夜、ユウが一人キッチンでコーヒーを淹れているとティキが帰ってきた。 「ただいま。俺にもコーヒーくれる?」 「はい」 今日はクロスが出張でおらず―言った通りユウを連れて行くようなことはしなかった。 いつもならばクロスのいない日はティキが帰ってくるのを待って食事を取るのだが、今日に関しては、ユウはティキの帰りを待たずに食事を済ませていた。事前にティキから「会社の飲み会に参加するから食事はいらない」と連絡をもらったからだ。 連絡の後ユウが予測していた通りティキの帰りは夜九時を過ぎ、ティキはユウに食事を要求することもなくリビングのソファにかばんを置いた。 「平日に飲み会なんてあるんですね」 「あ?ああ、基本は飲み会の多い職場でさ、今までずっと断っていたから今回くらいはと思って」 「断った?」 会社の飲み会は付き合いもあるし大事な行事ではないかと思っていたユウにとって、その飲み会を断っていたというのは予想外の言葉だった。何か理由があるのかと問えば、ティキはどう受け取ったらいいのかわからない笑みを返し、鞄から資料を取り出す。十枚程度の紙がホッチキスで止められている。 「それ……物件の資料ですか?」 「ああ。飲み会に会社と付き合いがある不動産屋が参加してたから一人暮らし用のいい部屋がないか聞いたんだ。まさか当日にもらえるとは思ってなかったけど」 鞄に常備していたらしいとティキは笑いながら言うが、ユウはそれに対して眉間に皺を寄せた。 「あの、」 「何?」 「一人暮らし用の部屋って……」 どうしてそんなものの資料が必要なのかと訝しんで尋ねると、ティキは軽く頷いてテーブルに資料を投げる。ホチキスで止められた一番上の物件にはマーカーで丸がついていた。 「家、出ようと思って」 「……え?」 「え?って、予想してただろ?実際には何もなかったとはいっても、クロスがあれだけ怪しんでユウに迷惑かけた。俺がいない方がユウも、クロスも落ち着ける」 「けど、こんな広い家で一人になるのは……クロスさんは出張ばかりだし、」 もともとティキがこの家にいたのはユウを一人にしないようにというクロスの配慮だ。クロスが誤解するような事実は何もないのだから堂々とここにいればいいとユウが主張しても、ティキは「明日契約してくる」と言って意思を曲げることはなかった。 「何で急に、」 「確かに急だな。実際、最近思いついたことだし」 「……俺の近くにいるのが嫌ってことですか」 ユウが暗い顔で尋ねると、ティキがユウからその言葉が出てくるのは意外だと言わんばかりに目を丸くする。 「それはユウの方だろ?」 「は?」 「俺の近くにいるのが嫌、なんじゃねぇの?」 「ど、どうしてそうなるんですか?」 ユウはティキを嫌だと思うような行動をとったことはない。それなのにどうしてそんなことを言うのかと尋ねると、突然ティキがユウの手に触れてきた。驚いて思わず手を引いてしまうと、ティキが「ほら、やっぱり」と言わんばかりの表情でユウを見る。 「告白をなかったことにしろ、って言っても、無理な話だよな。警戒されるのも俺が悪い」 「え?あ……、いや、これは、」 ティキは誤解しているのだということにユウは気づいた。ティキの告白を受けてからというもの、ユウはティキのことを妙に意識してしまい、手が触れればぱっとその手を避け、目が合えばすぐに逸らしてしまった。声にもいささか意識から生じた緊張が混じっていたかもしれない。 「警戒しなきゃいけないような相手と長時間二人きりは辛いだろ。部屋が広いって言っても、やることがあればすぐに一日なんか過ぎる。この際、自分用にパソコンとか買ったらどうだ?日本にいる親、友達とメールもできるしさ」 「…実家にパソコンがありません」 「あ、そっか。けど、もう決めたことだから。今まで悪かったな。まあ、荷物が多くなるような買い物するときは連絡くれれば車出してやるから」 「……」 ティキの一人暮らしをやめさせる手段の中には、ティキを警戒していたのではなく、恋愛の対象として意識してしまっていた所為だと言ってしまうという方法もある。だが、それは立場上クロスの妻であるユウが言ってはいけないことだ。夫がいるというのに他の男性を恋愛の対象として見ているなどということがあってはいけない。 「コーヒー、部屋に持ってきてくれるか?」 「……」 「ユウ?」 「あっ、……すいません、何ですか?」 「コーヒーできたら部屋に持ってきて」 「……はい」 どうやったらティキが家を出ていくことを阻止できるかと考え込んでいたらティキの声に反応できなかった。名前を呼ばれたことで気づいて要件を尋ね、ティキの口から出てきた頼みに渋々頷く。部屋へ行くということは、これ以上話し合いをする気はないということだ。 ティキがいなくなったリビングでソファに座り、ティキが置いて行った資料を手に取る。資料を見る限りは設備もよく、記載された情報だけでは最寄りの駅名しかわからない。 (大体、引き留めたところで何がしたいんだ?俺……) 強く出ていかないでほしいと頼めば、契約はまだしていないようだしティキは家に留まってくれるかもしれない。しかし、そうしたところでユウはティキとどうしたいというわけでもない。恋人という関係になれるわけでもないし、ティキに変な期待を抱かせようというつもりもない。 「離れた方がいいのか……お互いの……俺の為に」 ティキはユウの為に距離を置いた方がいいという。確かに、今時間が必要なのはティキではなくユウの方だ。ティキは以前通りの態度でユウに接してくれるが、ユウがそのティキの態度を以前のような気持ちで受け止められない。ユウ自身の気持ちを整理するには少し時間が必要だ。 ティキがユウの気持ちを警戒だと誤解してくれているうちに離れてしまった方が、きっとユウの為にも、ティキの為にもいいのだ。離れることを寂しいと思う気持ちは心の底に抑え込んで。 キッチンへ戻ると、すでにコーヒーメーカーは止まってきた。カップを棚から取り出してコーヒーを注ぐと、一つをトレーに乗せてティキの部屋へ持っていく。 「ティキさん、コーヒー持ってきました」 ドアを開けずに声をかけると、部屋の中で物音がしてティキが出てきた。暖房の風が廊下に出てきて暖かい。 「サンキュー、悪いな」 「いいえ」 「ユウはもうコーヒー飲んだら寝るだろ?カップはシンクに入れておいてくれれば俺が片づけておく。おやすみ」 「はい。……あの、」 「ん?」 「次の休み、買い物に付き合ってもらってもいいですか?食材を買いたいので」 「ああ、わかった」 「……おやすみなさい」 ドアが閉じられ暖房の風が途切れると、冷たい空気がユウを包む。 食材を買いたいというのは嘘だった。どうして突然そのようなことを言ってしまったのか自分でもわからなかったが……。 キッチンへ戻り、自分の分のコーヒーを手に取ってリビングのソファに座る。 「……何買おう」 やっぱり買い物はいいですというのも気が引けて、しかし冷蔵庫と保存庫にある食材を思い出して溜息をつく。 結局のところ、ティキと一緒に出掛けたかったから「食材を買いに行きたい」という嘘をついたというわけだ。とっさに口から出てきた、ユウ自身思いがけなかった言葉ではあるが、それしか理由が考えられない。 ティキを引き留めたりはしない。だが、これからは一人の時間が長くなるのだから少しくらい寂しいと思ってもいいはずだ。 |