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ティキは昔から複雑な立場にいた。
まず、ティキは産みの母親の顔を知らない。
父親から「お前の産みの母親は逃げた」と聞かされているが、それ以外の情報はまったくティキの耳に入ってこない。ティキも知ろうとは思わないので、それは構わないのだが。

産みの母親のことはそういった理由で全くわからない。しかし、「それならば育ての母親は?」と聞かれると、それはそれで困ってしまう。

何故かというと、ティキの育ての母親はティキの年の数以上いる為だ。今年二十六になるティキが物心付いたときから数えていただけで三十七人いる。一年以上ティキの母親でいてくれた女性は一人もおらず、どの女性もほぼ同じ期間で母親をやめてしまう。
本当に幼い頃はころころと変わる母親にも愛情や母性を求めていたティキだったが、小学校に入学した頃には母親というものが信じられなくなっていた。母親が変わったその日に、この人はどれだけ母親でいるのだろうかと人事のように考え出したのもその頃だ。
大体、戸籍上でも母親だった人がどれだけいるのか。ひょっとすると、一人もいないのかもしれない。

そして、ティキに多くの母親を代わる代わる与えてきた父親はというと、ティキの教育に関して完全なる放任主義で、金は要求する分出してくれるが、授業参観は勿論のこと、進路に関わる三者面談にも一度も来なかった。顔を合わせる事も、月に一度あるかどうかというところだ。
父親がそんな態度である為、ティキは進学先も就職先も誰にも相談せずに決めた。母親に相談するなどというのは論外である。相談したところで、彼女たちは最後までティキの面倒を見て応援することはない。

二十六年間そんな生活をしてきたティキは、家族というものをどうでも良いと思うようになっていた。未だに実家で暮らしているが、ティキが就職祝いに父親から玄関を始めキッチンや風呂など生活に必要な場所を増やしてもらったので、同じ家にいても母親には滅多に会うことがない。
初めて家にやって来た時に一緒に夕食を食べるという決まりはあるが、それ以外に会う時があるとしたらあちらがティキの居住スペースに入ってきた時と、家を出て行くことになったという別れの挨拶の時くらいだ。








とある日曜日、ティキは何か大きな物が落ちる音に起こされた。時計を見れば十時と、おはようと言うには遅い時間だ。
昨日飲みに行き、朝方帰宅して眠りに付いたためにまだ眠くはあったが、大きな音の後に聞こえてきた騒がしい声がティキの眠りを妨げた。声はティキが寄り付かない父親と母親の居住スペースから聞こえてくる。主に母親の声が聞こえるが、聞いたことのない男の声もする。
眉間に皺を寄せて起き上がり、絡まった髪を手櫛で梳かしながら窓の外を見る。家の前には、ティキが何度か見たことがある引越し屋のトラックが停車していた。どうやら、今の母親との別れの日が訪れたらしい。
家を出て行く前に一体何をしてくれたのかと、先程の大きな音を確認する為に両親の居住スペースへ向かうと、同じ服を着た男性二人が夫婦の寝室から今回の母親が結婚してから買ったであろう家具を持ち出していた。
壁や床は衝撃吸収材やビニールシートで覆われているが、一箇所だけ、壁がむき出しになり、壁紙に酷い傷が付いている場所がある。

「ああ、ティキさん、ごめんなさい」

引越し屋の男性達に続いて寝室から出てきた女性がティキの姿を見つけ、申し訳なさそうな顔をして近づいてくる。

「あれ、ぶつけたんですか」

近づいてくる女性に対し壁の傷を指差して尋ねると、女性はぎくりとした後気まずそうに俯いた。その態度を見てティキはキョトンと目を見開いた。
ティキは「家を傷つけてごめんなさい」という意味だと受け取ったのだが、女性にしてみると「もう家族じゃないの、ごめんなさい」ということだったらしい。

「業者の方が躓いて、クロゼットをぶつけてしまって……その、お父さんには謝っておいてくれるかしら」
「自分で言えばいいじゃないですか。弁償なんてことにはならないんで」
「そ、そう?」

女性があからさまにほっとしたような顔をする。弁償の心配をしているというのは目に見えていた。
今までの母親だった女性達も、引越しの際に壊してしまったものを弁償させられるのではないかという心配をしつつ逃げるように家から出て行った。
実際のところ、父親は新たな妻を迎える度に家の内装を変えたりしているので、壁紙が剥げてしまったところで不安になる必要はない。

トラックから戻ってきた男性が女性に作業が終わったことを継げ、再びトラックへと戻っていく。女性も廊下に置かれていた貴重品が入っているらしい鞄を持ち上げると、まっすぐに玄関へと向かう。
折角だし見送りでもしてやろうかとティキが玄関まで行くと、靴を履いた女性が振り向き、鞄から二つ折りになった紙を取り出してティキに渡してきた。

「…貴方のお父さんとはこういうことになってしまったけれど、これも何かの縁だと思うし、良かったら今度二人で食事でもどうかしら?いつでも連絡して頂戴」
「はあ、」

ティキに紙を渡した女性はにこやかに微笑み、下駄箱の上に鍵を置いて出て行った。
紙を開いて見てみれば、そこには女性の名前と新しい住所、電話番号、メールアドレスが書かれており、ご丁寧に父親には教えないでという注意書きまで書いてある。

「……馬鹿馬鹿しい」

やけにティキの居住スペースに来る母親だと思っていたが、やっと意味がわかった。夕食を作ったから、等の母親らしい意味で来た時は一度もなく、妙に露出した格好で夕食後、寝る前に来る。
全て、ティキのことを誘っていたというわけだ。

ゴミ箱に捨てるのも面倒なその紙を玄関に投げ捨てると、ティキはもう一度寝る為に自分の部屋へ戻った。








物心付いたときから数えて三十七人目の母親が家を出て行ってから三ヶ月。ティキの生活環境は三ヶ月前と比べて大きく変化した。

まず、家の内装工事が大々的に執り行われ、ティキの就職後に作ってもらったキッチン等の生活に必要な部屋は壊された。玄関も一つに戻り、ティキが小さい頃の無駄に大きく、空き部屋の多い一戸建てに戻った。

そして、女の影が家から消えた代わりに、父親がよく帰ってくるようになった。幼い頃月に一度会うか会わないかの存在だった父親と、今は週に四、五度のペースで会っている。
何を考えているのか知らないが会う度に酒を持ち出し「一杯付き合え」と言ってティキが自室に戻ることを許さず、自分の仕事のことを話し、さらに「仕事は捗っているか」「女はできたのか」などとティキのことを聞きたがる。なかなか信じがたい話ではあるが、ティキはこの時初めて、己の父親の名前がクロスという名前であることと、クロスが名の知れた実業家であることを知った。否、クロスという名前は知っていたが、誰だったか…という程度の認識で、父親の名前だということは忘れていたのだ。職業に関しては、やけに金を持っているので裏社会で仕事でもしているのだろうと適当なことを思っていた。
二十六年間、親からの干渉をほぼ受けることなく過ごしてきたティキにとって、ここ三ヶ月の父親、クロスの態度はストレッサーとしては十分なものだ。最近では家に帰る時間が近づく度に胃が痛くなるし、睡眠を多くとっても疲れが取れなくなってしまった。

散々放っておいて、何故今になってこんなにティキと親子の触れ合いをしようとするのか。
それがティキには不思議で仕方がない。クロスと話していると、この男は自分が大好きで、己の子供を気にかける性格ではないということを強く感じる。
一体どういうつもりだとティキは何度かクロスに聞いてみたが、その度にクロスは「親が子供と話をして何が悪い」と言い、理由を話そうとしなかった。家をただの一戸建てに戻したということはもう女を家に入れないつもりなのかと尋ねても、クロスは「さあな」と言って酒を飲むだけだ。ただ、ティキがこんなことを続けるのなら一人暮らしをすると言うと、何かしらの理由をつけて反対される。
クロスの元を離れていった女性達は、滅多に帰ってこないクロスに耐えられずに出て行ったのだと思っていたが、この調子だと違う理由があるのではと最近ティキは考えを改めた。偶に帰ってきたと思ったらこの調子で話をされては、愛情も磨り減っていくことだろう。勿論、クロスが滅多に帰ってこないというのも理由の一つではあるのだろうが。

ほんの少しだけ自分の母親だったことのある女性達に同情を覚えるティキだったが、今はそれよりも強く、早く自分の代わりにクロスの酒に付き合う女性の存在を待ち望んでいた。こんなにも新しい母親を待ち望むのはこれが初めてかもしれない。

兎に角、ティキは己の心の平穏を望んでいた。