※※


「見えてきましたよ」

 日が暮れはじめて暫く、ようやく二人の目に旅の宿と呼ばれる施設が見えてきた。遠目に見てなかなか大きな施設だと思うが、賊の侵入を防ぐためか石壁に囲まれており、施設の外観は屋根と、わずかに壁が見えるだけだ。

「やっとか」
「お疲れのようですね」
「股が痛い」

 馬に乗っているだけなら楽だと思っていたのだが、馬の背はユウが想像していたよりも揺れて、最初は反動でこすれた部分がかゆいだけだったが、徐々に痛くなってしまった。

「股ずれですか。宿に就いたらゆっくり休んでください。宿には股ずれを軽減する服も売っているはずですから、あとで購入しましょう」
「お前は平気なのか?」
「問題ありません」
「同じ時間だけ乗ってんのに……」

 自分だけが痛みを訴えているのが気に入らず、リンクに「無理するな」としつこく話しかけていたのだが、リンクからユウの満足する言葉が出る前に旅の宿に着いてしまった。
 ユウ達が中に入ると、門番が門を閉めて鍵をかけ、それを見たリンクが息を吐く。

「ギリギリだったようですね」
「思っていたより早くに門を閉めるんだな」
「街で最近は賊の活動が活発だと言っていましたから。その為でしょう」
「へぇ……」
「下りてください。馬を預けてきますので、宿の入り口で待っていてください」
「チェックインくらい、俺だってできるぞ」
「……では、お願いします」

 本当に?という目で見られはしたが、結局ユウに任せてくれたので文句は言わずに馬をリンクに頼み、建物の中へ入った。

「いらっしゃいませ」
「一泊頼みたい。二人だ」
「お部屋は一部屋で宜しいですか?」
「ああ」
「では、こちらの鍵をどうぞ。チェックアウトは昼の鐘が鳴る前にお願いします」
「わかった」

 受付から鍵を受け取り、リンクを待つかと宿の入口へ目を向けると、ちょうどリンクが入ってきた。

「ちゃんとできたぞ」
「そのようですね。ありがとうございます」

 受付からもらった鍵をリンクに渡すと、リンクは鍵に着いたタグで部屋番号を確認し、ユウを部屋まで連れて行ってくれた。

「この部屋です」
「そういえば、特にどういう部屋が良いとか言わなかった」

 部屋に入って今更だとは思ったが、念の為リンクに確認すると、リンクは瞬きを一度して大丈夫ですと頷いた。

「問題ありません。旅の宿の部屋はすべて平等の設備ですから。ランクはありません」
「へぇ、じゃあ値段も一緒か?」
「ええ」
「いちいち言わなくていいのは便利だな」

 ユウが荷物を置いてベッドに横になると、リンクももう片方のベッドに荷物を置き、中身を広げだした。

「王女、これをつけておいてください」

 近づいてきたリンクの手元を見ると、透明なガラスの瓶が握られていた。瓶の中身はクリーム色のとろっとした液体だ。

「何だそれ」
「痒みと痛みを和らげる薬です。股ずれしたところに塗っておいてください」
「……」

 瓶を受け取り少し情けなくなって溜息を吐いていると、リンクが外へ出て行こうとしているのが目の端に映った。

「どこか行くのか?」
「情報を集めてきます。ついでに王女の服も見てきますので、王女は大人しく部屋にいてください」
「……」
「いいですね?」
「……」

 ユウが答えずにいると、リンクは目を閉じ眉間に皺を寄せた後、わざとらしく溜息を吐いて「わかりました」とあきらめのこもった声を出した。ユウの無言が何を意味するのか分かったらしい。

「一緒に来てください。ただし、酒場に行きますから絶対に私の傍から離れないでください。旅の宿の酒場は様々な国の人間が集まります。当然、穏やかでないこともありますから」
「わかった」

 クリームをベッドサイドのテーブルに置いて入口に立っているリンクのところへ行くと、「こういう時だけは素直ですね」と言われてしまったが、苦笑いだけで呆れがまぎれていなかったのでよしとした。

「フードを被ってください」
「ん」

 顔が見えないようにしっかりフードを被り、リンクの後をついていく。

「先に王女の服を見ましょう。酒場は明け方までやっていますが、衣服を売っている店はそろそろ閉まる時間ですから」
「へぇ」

 相変わらずよくわかるものだと感心した声を出すが、特にリンクからの反応はない。ユウの知らないことをたくさん知っているリンクにとって、この程度のことは常識なのだろう。

 客室のある建物から廊下をわたって受付のあるホールに出て、そこから衣服や旅に必要な品を売っている店が入った建物に入る。建物の中は広めの通路を中心に左右にたくさんの店があった。店同士は衝立で仕切られているだけで、その衝立もユウの腰程度の高さまでしかない。その為、なかなかごちゃごちゃとした空間になってしまっているが、ユウにとってはそんな光景も珍しいものでなかなか楽しめた。

「すごいな、色々な国の服がある」
「ここの宿を主に利用する民族の衣服はすべてそろっているはずです」
「じゃあ、場所によって売っている衣服に違いがあるのか?」
「そうです。砂漠の国へ行く途中にある旅の宿なら、砂漠の国の衣服も売っているでしょうね」
「ふーん」

 砂漠の国の衣服と聞いて、ティキが最初に着ていた服のことを思いだそうとしたのだが、あの夜はティキの服をまともに見る余裕などなかったし、次に見たときにはクラウドの拷問で襤褸切れになっていた為、ちゃんと形を思い出すことができなかった。

「いらっしゃい」
「主、好きなものを選んでください」
「え?ああ、」

 いきなり王女から主に呼び名が変わったので戸惑ってしまったが、すぐに自分のことだと気付いて目の前に並ぶ衣服を見る。

「どれが乗馬に向いた服だ?」
「旅の宿の服は大抵のものは乗馬に適した素材を取り入れていますから、どの服でも大丈夫ですよ」
「それなら……これがいい」
「わかりました」

 一番最初に目に留まった服を手に取ってリンクに渡す。裾にほんのわずかに刺繍が施されてある以外はいたってシンプルなパンツだ。城にいた際にフリルやら装飾のついたドレスばかり着ていたので、その反動で飾り気のない服を好むようになってしまった気がする。

「他には大丈夫ですか?」
「ああ」
「すぐに会計を済ませてきますので、少し待っていてください」
「じゃあ、店の前に行ってる」
「お願いします」

 リンクが会計に向かうのを確認してから通路に出る。閉店時間が近いこともあってか、人は少ない。

「お待たせしました」
「これから酒場か?」
「はい。情報を集めて、食事もとってしまいましょう」
「酒場で?」
「ええ。嫌なら、部屋に持っていきますが――」
「嫌じゃない」

 今まで何度か宿の外で食べたことはあったが、情報を聞けるような場所で食事をすることはなかったので、つい確認してしまっただけだ。

「そうですか。……もう一度言っておきますが、絶対に私の傍から離れないでください。いいですね?」
「わかってる」

 リンクから袋に入れられた服を受け取り、リンクのすぐ傍を歩いて酒場へ向かう。

「ここの旅の宿は受付のある建物がすべての建物への中継点になっているようですね」
「違う場合もあるのか?」
「受付と宿泊場所が一つの建物にあって、他は旅の宿の敷地内にそれぞれの建物が点在していることが多いです。店も、あのように倉庫のような建物に複数入っているのは珍しいですね。全くないというわけではありませんが」
「国に以前あったっていう旅の宿はどうだったんだ?」
「先に述べたような、敷地内に通路で繋がっていない建物が複数あるようなものでした」
「建物は残っていないのか?」
「ええ」
「見てみたかった」
「……この旅の宿よりも栄えていましたね」

 斜め後ろから見るリンクの表情は少し寂しそうに見え、あまり多くの人と接したことのないユウでも、リンクが国にあった旅の宿を見たことがあり、そしてそのことは彼にとって懐かしいという言葉だけでは済まない記憶であることが分かった。
 会話を続けにくくなってしまいユウが黙ると、リンクもユウに話しかけてこなくなり、沈黙が続く。沈黙を破ったのは、酒場から聞こえてきた男たちの笑い声だった。

「何か面白いことでもやってるのか?」
「酒を飲んで大したことでもないのに笑っているだけでしょう」
「そういえば、俺がマリアンと会った場所にやけに露出の高い服着た女がいたが――」
「あれは酒場とはまた違う場所です」
「違うのか?客っぽいのは酒飲んでたぞ?」
「……そのうち教えます」

 そのうちではいつ教えてくれるか、そもそも本当に教えてくれるのかどうかも分からない。そう思いはしたが、前は頑なにユウを酒場に連れて行くのを拒否したリンクが酒場に連れて行ってくれるまでに変わったのだから、必ずそのうち教えてくれるだろうと信じてどんどん大きくなっていく酒場からの声を聴く。騒がしすぎて一人一人が何の話をしているのかは理解できなかったが、誰もが楽しそうに会話をしているのは伝わった。
 中に入ると、リンクは迷わず奥のカウンターにユウを連れて行き、酒を用意している女の前に座った。

「あら、若いお客さん。ご注文は」
「夕食になるものを。後は店自慢の飲み物をいただければ」
「ありがとう。そちらは」
「……同じもので」
「こちらの飲み物はアルコールを入れないでください」
「そう、わかったわ」

 女がくすくすと笑い、ユウはむっとしてリンクを見た。こちらの、ということは、リンクの飲みものにはアルコールが入っていると言うことだ。

「二人旅?」

 奥の厨房に注文を伝えた女が二人の前に戻り、話しかけてくる。

「ええ。占いの街に行こうと思っています」
「ああ、最近はあっちの治安、悪くなっているらしいから護身用のものを用意していった方がいいわよ」
「賊でも出るのですか?」
「そ。物を奪うだけならまだいいけど、命まで奪うって。ついさっき来たお客さんで、荷物置いて逃げてきたって人がいたよ」
「その人はどこに?」
「ほら、あそこで一人で飲んでる男。さっきあっちで飲んでる奴らに襲われたことを話したら意気地なしって笑われてさ、拗ねて一人で飲んでるってわけ。
「成程。主、私はあの男から話を聞いてきますので、」
「一緒に行っちゃダメなのか?」
「相手の素性が分かりません」
「……」

 離れるなと言ったのはどこの誰だと口をとがらせると、それを見ていた女が笑ってユウの前に飲み物を置いてくれた。

「あっちは酒飲んでそれなりによってるからね。従者さんが近寄らせたくないっていうのはわかるよ。飲み物サービスしてあげるから、ね?」
「……すぐに戻ってこい」
「はい」

 リンクが男の方へ歩いていくのを見ていると、女の小さな笑い声が聞こえた。

「あなた達、主従だったの」
「そうだ」
「そう、ふーん……」
「?何か、」
「気にしないで。若い男女が二人旅なんて聞いて、少し考えちゃっただけ」
「……」

 若い男女。この女が誰を女と勘違いしているのかは聞くまでもない。ユウの男言葉も、外套から見える男物の衣服も、旅の最中女と知られては厄介だからだろうと思っているのだろう。

「結構しっかりした従者さんだと思うけど、主人を酒場に連れてくるのはどうかと思うわ」
「一人で酒場に来られるよりはマシだと思ったんだろ」
「へぇ、一人で酒場に行ったことが?」
「アイツには違うと言われたけど……けど、客が酒飲んで笑ってたから、多分。店から出たところで見つかって、説教された」
「ひょっとして、露出の多いお姉さんがいっぱいいる酒場?」

 笑いをこらえているような女の問いに素直に頷く。すると、女は大声で笑い、だが、ユウが不機嫌な声を出すと目に涙を浮かべて―ユウの機嫌を損ねたことを恐れたからではなく、笑いすぎた為だ―軽く謝ってきた。

「それは、一人にしておくのが不安になるわね」
「どういうところなんだ?」
「あなたみたいな子が入っちゃいけないとこなのは確かね。酒場よりも危ないから……あら、従者さんが戻ってきた」

 女の言葉にユウが振り返ると、リンクの不機嫌そうな顔が目に入った。

「お帰りなさい、従者さん」
「何か笑っていたようですが」
「可愛い主人だと思って。随分大切に育てられてるのね。はい、どうぞ」

 ユウの隣に座ったリンクの前に女がくすくすと笑いながら飲み物を出す。礼を言ってリンクが一口酒を飲み、ユウの方を向く。

「何の話を?」
「お前がそのうち教えるって言ってた酒場の話」
「っ、」

 ユウの答えを聞いたリンクがキッと女を睨むが、女は肩を竦めるだけで特に謝りはしなかった。そもそも、その酒場の話のきっかけを作ったのはユウなので、女が責められるのはお門違いだ。

「でもねぇ、露出の多いお姉さんがいっぱいいる酒場を知らないなんて、どんな育ち方してるの?」
「こいつが何も教えてくれないから」
「じゃ、俺が教えてあげる。その酒場は、娼館の一つさ」

 このまま、リンクが言わざるを得ない状況にしてやろうと思っていたのだが、突然脇から料理が出てきて、ユウの頭の少し上から声が聞こえた。

「下が酒場みたいになってるってことは、娼館兼酒場兼それ用の宿かもしれんけど」
「……」

 声をする方を見上げて少しフードをあげてみれば、隻眼の男がユウを見て笑っていた。瞳は若葉を思わせるような新緑色、髪は暖かな暖炉の火の色と、なかなか派手な色をした男だ。

「あんたね、従者さんが教えまいとしてることを、そうやって軽々と教えちゃうのはどうなの」
「旅してんのにそういう建物を知らない方が問題さ。騙されたら大変だろ?」
「ごめんね、従者さん。これ、口が軽くて」
「これって何さ、」
「……誰」

 女と男の会話の様子をぽかんとして見ていたユウだったが、リンクにフードを深くかぶり直させられて漸く動くことができた。

「ああ、ごめんなさい。これ、私の甥なの」
「ラビでっす」
「学校卒業して旅費を稼ぎたいからってここで働いてるのよ。ほら、さっさと料理作りに戻りな」
「なんでさー、こんな美人と会えることめったにないからもっとお話ししたいさぁ。隣の人が怖いけど。あ、料理あったかいうちに食って。俺が作ったんさ」
「……ありがとう」

 ユウが食事に目をやると、男はとくに許可を求めるわけでもなくごく自然にユウの隣に座った。フードを深くかぶっているにもかかわらず、男の視線を感じて気まずい。

「お嬢さんって、東国出身?」
「……母が」
「そっか、じゃあハーフ?」
「…はい」
「主」
「リンク、」

 ユウが聞かれたことを正直に答えてしまうことに不安を感じたのか、リンクが困ったような声をだす。その声の意図に気付いて口を閉じると、ラビがつまらなそうにリンクに目をやった。

「何だよ、これくらい聞いたっていいじゃん」
「主、やはり部屋で食事をしましょう。すみません、持ち帰れるようにしてもらえますか」
「ええ」

 リンクが有無を言わさず料金をカウンターに置き、目の前に運ばれた料理を部屋に持ち帰ることができるように女に頼む。ユウとしても、ずっと見られた状態では食事をしにくかったので、リンクに反対する理由はなかったが。

「はい。ごめんなさいね、この馬鹿が不快な思いさせて」
「いえ、それでは」

 リンクの手を取って椅子から立ち上がり、入口に向かおうとする。だが、リンクが足を動かすよりも先にラビがリンクに声をかけた。

「なあ、あんたリンクって――」
「失礼します」

 ラビの言葉を最後まで聞くことなく、リンクはユウを連れて酒場を出た。

「あの男、何か言ってたぞ」
「聞いたとしても、返す言葉はありませんので」
「あと、リンク」
「何ですか」
「娼館だったら授業で習った。なんで教えてくれなかったんだよ」
「聞いたことがあるのなら見たときに気付いたのでは?」
「聞いていた娼館と違ったから、」
「貴方が気づかなかったから、教えずともよいと判断したんです」
「……」



「リンク、かぁ……」
「あんたね、お客さんを不快にさせるようなことはするなって言ってるのに」

 二人がいなくなった酒場では、女がラビに説教をしていた。

「叔母さん、リンクって家名だと思うさ?」
「どっちでもいいじゃない。よくある名前だし、珍しくない家名でしょ」
「あはは」
「ほら、さっさと仕事して。給料下げるよ」
「それは困るさ」

 漸くラビが椅子から立ち上がり、女も新しくカウンターに座った客の相手を始める。

 大学で各国の歴史や民族のことを学んでから、相手の目や肌の色、体格、名前等の情報を集めるのが趣味になってしまった。その為、珍しい色の客には声をかける癖がついてしまい、叔母にはあまりよく思われていない。声をかけるだけで済むならいいのだが、偶に相手を不快にさせてしまう為だ。
 最初は東の血が流れているらしい主人の方に目が行ってしまったが、最終的にラビが気になったのは主人にリンクと呼ばれた従者の方だった。

(叔母さんは途中までしか学校に行ってないから知らないんさね。リンクって名前は珍しくないけど、リンクって家名はもうないってこと)

 大学で文化の歴史を学んでいるときに出てきた家名だ。

「……ま、俺には関係ないさ。あーあ、さっさと金貯めて旅してぇ」