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ユウが目を伏せてから暫くの間、男は一言も喋らずユウの隣に座っていたが、ふいにポツリと呟いた。

「逃げ出したばかりの頃は、この国には逃げ込まないつもりだった」
「何で、」

男の言葉に目を開け男を見ると、男はユウを見ておらず、己の手の甲を見つめていた。先程よりも十字は薄くなっている。
「さっき言っただろ。良くしてもらったって。こんな良い国にエクソシストを呼び込んじゃいけねぇって思ったから」
「でも、来た」

こうして、ユウの隣に座り、身分をユウの奴隷としながらもユウの体を支配している。
男の過去には同情したユウだったが、一つだけ不可解な点があった。
ユウを見てきた男の瞳をじっと見て、口を開く。

「どうして、俺にこんなことをした?」

ユウには、話の中に出てきた男と、ユウの性器にガラス玉を入れた男が同一人物とは思えなかったのだ。話の中の男は人を思いやる心のある人物で、とても何の関係も無い人間を苦しめるとは思えない。
男はユウからの質問に目を瞬きさせ、困ったように目をそらした。

「理由は二つある」

ひょっとして今男が話したことは嘘だったのではないかとユウが疑いだすと、目でそれがわかったのか、男が口を開いた。

「一つは、出会いがしらで今の話をしても信じてもらえるとは思わなかった。十年も前に滅んだ国の話だ。証拠も無い」
「……そうかもしれない」

男の言うとおりだ。あの夜、部屋に進入してきた男を見て冷静に話し合おうなどとは思えなかった。男が自分を殺せないようにと細工をしたのは、当然といえば当然だ。

「もう一つは?」
「…偶に、自分で自分を抑えられなくなる時がある」
「どういうことだ?」
「自分の欲を抑えられなくなる。内から奇妙な声がして、その声に逆らえない」

言い直した男の言葉の意味もわからず、ユウは眉間に深い皺を刻んで男を見た。

「わけがわからない。自分の中から聞こえたのならそれは自分の声だろ」
「ノアの声だ」
「……?」
「砂漠の国がまだ集落だった頃、黒髪金目の砂漠の民はたった一人だった。それが、ノア。俺や仲間達の能力を全て操ることができる存在だったらしい。ノアは集落のリーダーの親友で、親友を王にしようと自らを犠牲にしてリーダーに尽くしてきた。それこそ、全ての感情や欲を捨ててな。そして、ノアの力あって集落はどんどん大きくなって、国になった。リーダーは初代国王になった」
「…それ、本当の話か?」
「さあ?砂漠の国で禁書扱いになった御伽噺だ。ノアの助けを借りて国王になることができた男だったが、次第にノアの力を恐れるようになっていった。集落が国になったのはノアの力であって、自分の力じゃねぇって王は理解してたんだ。だからこそ、それだけの力を持ってるノアが怖く思うようになっていったし、妬ましいと感じるようになった。国民も、ノアの力あってこその国だと理解していたから、国民の信頼すら王じゃなくてノアに向けられてた。そして王は、自分には何も無いと思っちまった」

男が何故この話をしようとしているのか全く理解できない。本当かどうかわからない御伽噺だし、話の先も聞かずともわかる。ノアが迫害されるのだ。
だが、男は御伽噺を話すのをやめようとしなかった。

「ある日の夜、王は城のバルコニーで共に月を見ていたノアの腹めがけて背後から剣を突き刺した。ノアも俺みたいに通り抜けることはできたんだろうけど、俺の力は咄嗟の事じゃ使えねぇからな。油断しきってたノアはわけがわからねぇまま振り返って、王にどういうつもりなのか聞いた。あくまでも、ノアには王を殺そうなんてつもりは無かったんだ。それくらいで自分が死ぬこともねぇってわかってたし。王が震えた声ですまなかったと謝ってくれれば、最愛の友の一時の気の迷いだと許してやるつもりだった。けど、実際は違ったわけだ。王は今まで自分が心の中に抱えてた負の感情を全部ノアにぶつけたんだ。言われているうちにノアの心にも怒りが生まれたが、何とか感情を堪えた。それでも、王に…最愛の友に化け物と言われたとき、ノアの心は砕けちまった。ノアの心は国中に降り注いで消えて、ノアの中には何も残らなかった」
「心が降り注ぐって、」
「国中に何かが降り注ぐのを見て怯える王に、ノアが嗤いかけてこう言う。“今、私の心をばら撒いた。今の私には何も無い。友よ、私という器はお前の愚かな行動を許そう。だが、器から飛び出てしまった中身がお前を、人を許すと思うな。私の心は人を呪い続ける”そう言って、ノアは穏やかな顔をして息絶えた」
「それ、許したっていえるのか?」

ユウが顔を顰めて口を挟むと、男はキョトンとした後面白そうに笑ってユウの頭を撫でた。

「確かに、いくら本人が穏やかな顔して死のうが呪い続けるなんて言葉残して死んでんだから許してねぇよな。……でもまあ、それがノアの一族の始まりだって本には書いてある」
「それが、お前がこんなことをした理由と関係あるのか?」
「俺達ノアの一族は、ノアの心だ。心はノアが内にしまっていた感情でもあれば、欲でもある。ノアの一族はそれぞれ何かしらの感情や欲が強くてね、俺は特に“快楽”が強いんだ。ああすれば楽しいと、俺の中でノアが囁いた」
「………」

ノアの一族の能力はわかる。だから、今までの男の話は信じようという気になれるが、ユウはこの話だけは信じる気にはなれなかった。何百年も昔に生きていた人間の心が、今人の心を支配できるはずが無い。

「俺の言い訳だと思ってくれればいい」

ユウの表情から信じていないだろうことを感じ取ったのか、男が苦笑いをして言う。

「信じられるような話じゃないからな」
「…本当に、そう思うぞ」
「ああ。実際声に誘われてやったのは俺だし、楽しいと思った」
「少しは同情してやろうと思った俺が馬鹿だった」

ユウにとっては楽しくもなんとも無い。
自分の善意を台無しにされた気になってユウが肩を竦めると、男は少し考えるような仕草をした後、体内からゴブレットを取り出した。さらに今までにユウの中から取ったガラス玉を取り出し、能力を使って穴にガラス玉を埋め込んでいく。
「何する気だ?」
「あの男がこの国に来ちまった以上、長居するわけにもいかねぇからな。俺がいる限り、あいつも居座る。あれに長居されるのはこのお人好しだらけの国でも困るだろ。ほら、こっち向け」
「けど、外に安全な場所なんて、」

渋るユウの体を無理矢理己のほうへと向かせ、男がユウの股の間に手を入れる。すっと何かを掬うように男の手がユウの中から出てくると、今までユウを襲っていた不快感が一気に消えた。

「一個も残ってねぇはずだ。気分良いだろ」
「…本当に、この国から出て行くつもりか?」

ユウを見ずにゴブレットにガラス玉をはめ込んでいく男に尋ねる。男は何も喋らず手を動かしていたが、ゴブレットが完全な形に戻ると、ユウの前においてユウを見た。

「これがあれば、俺が逃げても王女様の面目は保たれるだろ。これのありかを教えたから自由にしてやったとでも言えばいい」
「ゴブレットを出さなくても、俺の用事で出かけたといえばいい。そのまま逃げればいいんだ。俺の奴隷でなくなったらお前はまた多数の国から追われることになる」

元々、ユウ以外の人間は男が宝のありかを吐いたら男を処刑する気でいるのだ。宝が戻り、男が自由の身になったらあっという間に男を捕まえるための兵士が手配されてしまう。

「そうだ、俺を人質にとって逃げればいい。そうすれば、どの国も迂闊にお前を攻撃できない」
「はっ、冗談」
「本気だ」

訝しがる男をじっと見て、本気で言っているのだとわからせる。
男への同情が残っているというのもある。だが、それだけではない。ユウも、この国から、聖女という身分から逃げ出したかったのだ。

「聖女は必要ないと言ったのはお前だろ。俺は、この国にいる限り聖女であり続けなければいけない。お前が連れ出してくれれば、」
「連れて行かない。足手纏いだ」

男の瞳が揺れ、あと一押しだと言葉を続けようとしたところで、男がユウの言葉を遮った。

「足手纏いって、っ、俺だって戦うことはできる!」
「俺が侵入した時王女様は何もできなかっただろ。無理だよ。第一、俺が逃げてるのはあの男とエクソシスト。国じゃねぇ」
「………」

男が立ち上がり、外と中を隔てる壁に触れる。

「ティ――」

慌てて立ち上がってずぶりと壁に片手を埋めた男の服を掴むと、男が振り返り、ユウが男の名前を呼ぼうとしたのとほぼ同時にもう片方の手でユウの体を抱き寄せた。

「殆どの奴は俺のことをジョイドって呼ぶ。その名前を知ってんのは、仲間と王女様だけ。特別、ってことなんだぜ?これ以上側にいたら、俺はノアの声の誘うままに王女様に酷いことしちまう」
「俺は、」
「王女様を主人に選んで良かったよ。王女様にとっては嫌な事ばかりだっただろうけど」
「待っ――」

ユウがしっかりと掴んでいたはずの服がユウの手から通り抜け、男が壁の向こうへと消える。

「じゃあな、王女様」

別れの言葉と共に、男はユウの前からいなくなった。